鉄道は移動手段のみにあらず! 私鉄ビジネスモデルを編み出した阪急総帥「小林一三」をご存じか
2023年は、阪急総帥・小林一三の生誕150年という節目にあたる。小林は「鉄道は移動手段」という固定概念にとらわれずに独創的なアイデアを次々と考え、実現させていった。
“夏の風物詩”も創造

そして、小林は沿線開発だけではなく、沿線で興行を打つことで沿線外需要を掘り起こしていく。1913(大正2)年、沿線にあった豊中運動場で全国中等学校優勝野球大会が開催された。
同大会は“夏の甲子園”でおなじみの野球大会の前身で、いわば小林が生みの親といっても過言ではない。全国中等学校優勝野球大会は球場が狭いとの理由で、第3回から阪神電鉄の沿線にあった鳴尾球場に開催地を変更。そして、第10回大会からは甲子園球場(現・阪神甲子園球場)で開催されることになり、定着した。
いまや同大会は野球少年たちの憧れの大会でもあり、夏の風物詩にもなっている。長らく阪神タイガースがホームグラウンドとする甲子園で開催されてきたことから阪神との関係性に目が行きがちになるが、歴史的に見れば高校野球の生みの親は阪急であり、小林ということになる。
小林が貢献したのは高校野球だけではない。プロ野球にも大きな功績を残している。1924年、小林は宝塚運動協会を立ち上げた。これは日本初のプロ野球チームともいわれる日本運動協会が経営難に陥ったことから、その受け皿として設立された。
宝塚運動協会は西宮にホームスタジアムを構えた。西宮は言うまでもなく、阪急の沿線にある。これは、小林が試合開催日に電車を利用して試合を見にきてもらうという、鉄道の集客ツールとして生み出された。
小林の狙いは素晴らしかったが、対戦チームがいなければ、野球の試合は成り立たない。小林は私鉄各社に野球チームを結成するように要請。鉄道会社が自社の沿線にホームグラウンドを持つことで、試合開催日に多くの需要が生み出せると主張した。小林が提案した電鉄リーグ構想は、残念ながら応じる私鉄がなく、恐慌などの発生もあって宝塚運動協会は解散に追い込まれる。