激変する「京急大師線」沿線 マンション乱立で新住民流入、路線利用者2割増の真実とは

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現在、京急大師線沿線の風景が変わっている。新たなマンションが多くつくられ、新住民も増えている。いったいなぜなのか。

大きく姿を変える沿線風景

京急大師線(画像:写真AC)
京急大師線(画像:写真AC)

 現在、京急大師線沿線の風景が変わっている。京急大師線は神奈川県川崎市の京急川崎駅から東へ約4.5km、途中、路線名の由来・川崎大師のある川崎大師駅に停車し、終点の小島新田駅まで7駅を走る。

 川崎大師駅を除けば、京浜工業地帯の工場群とそれに付随する住宅地を走る、よくも悪くも

「場末感」

のある路線だと思われていた。ところが、その路線が大きく姿を変えているのだ。

 参詣客でにぎわう川崎大師駅を過ぎて、終点の小島新田駅で降りれば、絵に描いたような町外れの雰囲気が漂う。店も少なく、夜ともなれば街は暗い。ところが、最近はこれまで見なかったようなタイプのサラリーマンが増えた。街場の焼き肉店も、地元民ではない客が多いのである。

 京急大師線は1899(明治32)年、川崎大師への参詣客輸送を目的に開業した京浜急行電鉄最古の路線だ(当時は大師電気鉄道)。果樹栽培とノリ養殖が盛んだった多摩川河口付近が工業地帯に変化するとともに、鉄道は姿を変えた。

 1924(大正13)年に川崎市が成立すると、初代市長になった石井泰助は、港湾都市として当時発展していた横浜との格差を解消するため、工業化を決断。土地を安価にして企業誘致を計り、河口や臨海部は瞬く間に大工業地帯へと姿を変えた。以来、京急大師線は川崎市中心部から臨海部へと労働者を運ぶ路線としての役割を長らく果たした。

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