第2次大戦 ドイツ軍の対ソ敗北は「ロジスティクス」が原因だった? ヨーロッパ戦争史からその変容を読み解く

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ウクライナ侵攻以降、一般的に知られるようになった「軍事ロジスティクス」。今回は中世以降のヨーロッパ戦争史と軍事ロジスティクスの変容を考える。

ルイ14世と「軍事倉庫制度」

『戦いの世界史――一万年の軍人たち』(画像:原書房)
『戦いの世界史――一万年の軍人たち』(画像:原書房)

 こうした状況が多少なりとも変化したのが、17世紀後半から18世紀初頭フランスの「太陽王」ルイ14世(在位1643~1715年)の時代である。そこではル・テリエとルーヴォアというフランス人親子によって初めて「軍事倉庫制度」が確立され、これが、その後の戦争の様相に決定的な影響を及ぼすことになる。

 だが、それでもなお、当時の戦争の唯一のやり方と呼べるものが、自らの費用でなく、近隣諸国の負担の下で軍隊を維持することであったとしても必ずしも誇張ではない。

 確認するが、基本的に中世ヨーロッパ世界の戦争では、侵攻した地域を略奪することによって軍隊は維持された。「17世紀ヨーロッパの軍隊は、地表を侵食しながら進んでいく『ウジ虫』のような存在だった。後には、飢餓と破壊という足跡が残された」のである(ジョン・キーガン、リチャード・ホームズ、ジョン・ガウ共著、大木毅監訳『戦いの世界史――一万年の軍人たち』原書房、2014年、287ページ)。

 事実、フランスのいわゆる宰相アルマン・ジャン・ドュ・プレシー・リシュリュー(1582~1642年)は、「敵の奮戦よりも物資の欠乏と規律の崩壊によって消滅した軍隊の方が多いと歴史は示している」と的確に述べていた。

ナポレオンの軍事ロジスティクス

『補給戦』の第2章「軍事の天才ナポレオンと補給」では、現地調達を徹底し戦争の範囲や規模を劇的に変えたとされるナポレオン・ボナパルトが遂行した一連の戦争でさえ、ロジスティクをめぐる問題が戦略を決定していた事実が述べられている。

 同様に、ナポレオンのロシア遠征(1812年)に対抗するロシアの戦争計画も、戦略的考慮よりロジスティクスがその決定要因になっていた事実が記されている。

 他方、略奪を基礎とした中世のロジスティクス・システムは、19世紀の戦争の必要性を賄うには不十分だった。その結果、この世紀には多くの重要な変化が生じたが、それらは組織上の変化であり、技術的な変化だった。前者の変化で最も重要なものは、補給および輸送業務が軍隊に正式に組み込まれたことであり、それまで何世紀にもわたって荷車とその御者が必要に応じて徴用されていたやり方に変化が生じたのである(キーガン、ホームズ、ガウ共著『戦いの世界史』287ページ)。

 繰り返すが、ハワードは、こうした変化を「管理革命」と名付けた。これは、もちろん軍事に関する「技術」の重要性を認める一方、戦争での勝敗を優れて「運用」をめぐる問題として捉える歴史解釈である。事実、第2次世界大戦(1939~1945年)でドイツ軍が用いた「電撃戦」は、既存の軍事技術を使いながら、従来とは異なった軍事力の運用方法と編成で実施されたのである。戦車そのものの性能を比べれば、ドイツ軍が当時保有していた戦車は、フランス軍やイギリス軍と比較して決して優れていたとは言えない。

 また、「組織」のあり方に注目して参謀本部制度や師団制度の発展に代表される組織こそが、戦争の行方を決める重要な要因であるとの議論もある。周知のように、1860~1870年代の「ドイツ統一戦争」でのプロイセン = ドイツの勝利は、ライフル銃、鉄道、電信といった軍事技術の革新に負うところが大きかったが、それ以上に重要な要因は、参謀本部や参謀大学といった組織の下支えがあった事実である。

 実際、ナポレオンの軍事的な勝利の要因としては、

1.軍団制を用いていたため部隊を分散させ現地でのロジスティクスを容易にさせたこと
2.いわゆる「軍用行李(こうり)」がなかったこと
3.徴発担当の常設組織が存在したこと
4.ヨーロッパが以前と比較して人口密集しなっていたこと
5.フランス軍の規模そのものが大きいため敵の要塞(ようさい)包囲のために進軍を停止する必要がなく、それらを迂回することができたこと

など、組織の変化、さらには広義の意味での社会の変化が挙げられている。

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