大衆食堂はなぜ「カレー」を名物にしたのか? 学生街と鉄道沿線の薄利多売が生んだ外食文化の歴史
大衆食堂、社員食堂、学生食堂など、和洋さまざまなメニューを安価に提供する食事の場を意味する「食堂」。もともと仏教用語であった食堂が外食店に採用されるきっかけとなったのが、鉄道であった。
米騒動と食堂

明治時代中頃から、農村などからの上京者が増え、都市部の人口は肥大していく。産業革命により、農林水産業から製造、サービス業へと就業人口がシフトしたからである。
上京者の多くは独身男性であり、彼らは毎日の食事に悩まされることとなる。
コンビニもスーパーも弁当チェーン店も存在しない時代である。冷凍食品もインスタント食品もなく、自炊しようにも冷蔵庫も電子レンジもなし。家によっては水道やガスさえもない時代だ。各都市の自治体は、彼ら食事難民の救済対策を迫られるようになる。
1918(大正7)年には物価高騰に対する抗議運動、いわゆる米騒動が起きる。物価対策のために東京市は公衆市場、公衆浴場、公衆質屋などの市営サービスを開始。商品やサービスを安く提供することで物価の沈静化を図る。
物価対策と食事難民救済を兼ねて東京市が設立した市営食堂が「公衆食堂」である。大阪市・京都市では「簡易食堂」、神戸市では「公設食堂」と自治体によって名前は異なっていたが、食堂という名前は共通していた。
各市営食堂は和食だけでなく、カレーライス・カレー丼も定番メニューとしていた。他にもうどんや丼ものなど、和洋関係なく安く早く提供できるメニューが採用された。
市営食堂の全国展開とともに、、和洋さまざまなメニューを安く提供する店を食堂とよぶ習慣が定着。「一膳飯屋」「縄のれん」「一品料理店」といった名称は消えていったのである。