マツダ「5つのブランド」はなぜ消えたのか?──バブル期の乱立戦略“クロノスの悲劇”をご存じか

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マツダは1990年代、国内販売80万台を目指し5チャンネル体制を拡張したが、複雑なブランド構造とバブル崩壊で失速。ロードスターのみが輝きを放ち、後のトヨタ・レクサス戦略はこの失敗を反面教師に成立している。

バブル崩壊による5チャンネル縮小

 整理すると、1991(平成3)年の時点でマツダは日本市場向けに、マツダ開発・生産車両(他社OEM含む)をマツダ、アンフィニ、フォード(オートラマ扱い)、ユーノス、オートザムの5ブランドで同時販売していた。

 しかし、バブル崩壊の影響が自動車販売にも明確に出始めた1992年ごろから、国内市場全体が縮小し、マツダの販売も同じように落ちていった。1991年に北米向け高級ブランド「アマティ」を発表したが、1992年には資金難で計画を中止している。1993年度からマツダの経営は深刻な状態になった。市場要因に加え、5チャンネル特有の負担も重なり、体制維持は困難となった。

 5チャンネル特有の負担としては、大規模な販売網拡大による設備投資や人件費が重くのしかかったことがある。さらに、販売チャンネルだけでなくブランドまで細かく分けたため、車種も増え、開発コストを含めた経費が膨らんだ。営業や宣伝もブランドごとに別建てで用意する必要があり、1台あたりにかけられる力は薄まった。ユーノス・ロードスターのようなヒット作は生まれたが、それ以外のモデルは知名度を十分に上げられなかった。

 戦略上の大きなミスもあった。1991年、主力の5ナンバー中型セダン「マツダ・カペラ」の後継を、ひと回り大きい3ナンバー車「マツダ・クロノス」に置き換えた。これにより、需要の厚い5ナンバー級の柱を自社ラインアップから外すことになった。さらに5チャンネル化で、アンフィニMS-6、フォード・テルスター、オートザム・クレフ、5ナンバーのユーノス500など、カペラ相当の領域を分散させてしまった。その結果、各系列は稼げる中心車を欠き、共倒れに近い状況を招いた。この一連の失敗は「クロノスの悲劇」と呼ばれた。

 加えて、ユーノスとアンフィニは路線が近く、オートラマはフォード車を扱いながらブランド名にフォードを冠さず、オートザムは軽・小型車に加えてランチア車まで扱ったため、名前が似ているうえに「何の店か」が伝わりにくかった点もマイナス要因となった。

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