マツダ「5つのブランド」はなぜ消えたのか?──バブル期の乱立戦略“クロノスの悲劇”をご存じか

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マツダは1990年代、国内販売80万台を目指し5チャンネル体制を拡張したが、複雑なブランド構造とバブル崩壊で失速。ロードスターのみが輝きを放ち、後のトヨタ・レクサス戦略はこの失敗を反面教師に成立している。

国内販売の強化戦略

 1987(昭和62)年12月、バブル経済は膨張の最中だった。当時、マツダはプラザ合意後の急激な円高で輸出採算が悪化していた。このタイミングで経営トップが入れ替わる。

 ロータリーエンジン開発の立役者だった山本健一氏は社長から会長に退き、通産省(現・経産省)出身の古田徳昌氏が新社長に就任した。さらに住友銀行出身の副社長・和田淑弘氏が経営に深く関与する、事実上の3トップ体制が構築された。

 1988年5月、この経営陣は全社の中期計画「MI(マツダ・イノベーション)計画」を開始した。当時約40万台だった国内販売を80万台(シェア約10%)まで引き上げる拡大策を掲げ、販売網と車種を一気に増やす戦略を打ち出した。

 マツダはもともと、「マツダ」、セカンドラインの「マツダオート」、さらに「オートラマ」という三つの販売チャンネルを持っていた。オートラマは1981年に立ち上がり、目的は「フォード車を日本市場で販売するための販路確保」にあった。米国のフォード・モーターは自社ブランド車の日本販売を模索していたが、ゼロから専用ディーラー網をつくるより、マツダの既存販売網を活用する方が効率的だと考えた。

 そこでマツダは既存の販売会社や店舗の一部をオートラマとして再編し、マツダOEMの日本製フォード車を中心に扱う専門店として展開した。「フォード・テルスター」「フォード・レーザー」「フォード・フェスティバ」といった車種があった。その後、1980年代後半にはフォードの輸入モデルも取り扱うようになった。派手なテレビCMも流し、「オートラマへ、愛に恋。」というキャッチコピーを長く用いた。アイドルグループ「セイントフォー」とのタイアップも行い、「フォード・レーザー1500スーパースポーツ“セイントフォー”スペシャル」という商品も発売した。一連のCMではフォードのロゴを大きく露出させていた。しかし、店名にフォードが入らないオートラマが、どのような店なのか大衆に十分伝わっていたかは疑問が残る。

 マツダは国内販売を80万台に引き上げる拡大策の一環として、既存のマツダ、マツダオート、オートラマに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2チャンネルを加え、国内5チャンネル体制を整えた。チャンネル数としてはトヨタと同等で、3チャンネル時代から販売店網を大幅に拡充する大攻勢だった。

 新チャンネルのひとつユーノスは、当時のマツダ本体が十分に取り込めていなかった都市部の中間層や輸入車志向の顧客向けに、もう一段おしゃれで上質なラインを示す狙いがあった。特徴的なのは、車名の先頭からマツダをあえて外し、ユーノスとして展開した点である。上級パーソナルクーペは「ユーノス・コスモ」として提示された。ユーノスというブランド名はバブル期の空気に乗り、なんとなく外国車風の都会的な印象を与えた。

 特にアイコンとなったのが、2シーターのオープンタイプライトウェイトスポーツカー「ユーノス・ロードスター」だ。1970年代後期のスーパーカーブームを経験した世代には、リトラクタブル・ヘッドランプの造形が印象的だった。価格は170万円前後と手が届きやすく、多くの顧客の関心を集めた。

 その後、各国メーカーが中小型オープンカーを投入する追随を見せるなど、ロードスターは5チャンネル体制を代表する成功作となった。ただし、ロードスター目当てで来店した客が「ほかのモデルもいい」と横に流れるようなラインナップは十分ではなく、ユーノス全体のブランド拡張にはつながらなかった。

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