マツダ「5つのブランド」はなぜ消えたのか?──バブル期の乱立戦略“クロノスの悲劇”をご存じか

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マツダは1990年代、国内販売80万台を目指し5チャンネル体制を拡張したが、複雑なブランド構造とバブル崩壊で失速。ロードスターのみが輝きを放ち、後のトヨタ・レクサス戦略はこの失敗を反面教師に成立している。

輸入車混在の販売構造

 オートザムは軽自動車や小型車を扱うブランドとして設立された。車名は「オートザム〇〇」と揃え、マツダの名は冠していない。「オートザム・キャロル」は日産のパイクカーに通じるデザインで人気を集めた。「オートザム・AZ-1」は国産では非常に珍しい量産ガルウイング車だった。「オートザム・レビュー」のCMには当時のCMクイーン、小泉今日子を起用した。

 1990(平成2)年以降はイタリアのランチアやアウトビアンキの輸入車も販売しており、軽自動車を見に来た客の横に、サイズも価格帯も異なるイタリア車が置かれるという構造になっていた。名前が似たオートラマと同様に、「何の店なのか」が十分に伝わっていたかは疑問が残る。

 ただ、5チャンネル体制の初期はバブル期と重なったこともあり、一定の成果はあった。1990年前後、日本の新車市場が史上ピークに達した局面で、マツダの国内販売も高水準に達したのである。

 さらにマツダは1991年、マツダオートを「アンフィニ」にリブランディングした。こちらもマツダを外し、フランス語で「無限」を意味するアンフィニで統一した。ロータリーエンジン搭載のスポーツカー「アンフィニ・RX-7」、ミニバン「アンフィニ・MPV」、上級パーソナル系の「アンフィニ・MS-6」「MS-8」「MS-9」などを展開し、5チャンネルの中でやや上位のイメージを担わせようとした。

 しかし「都市型で少し上質」という方向性はユーノスと重なり、ブランドごとの役割の違いは明確ではなかった。

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