東京の銭湯経営者に「北陸出身」が多い説は本当? 明治~昭和の鉄道網と生活インフラが築いた「見習い少年」たちのネットワーク

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東京や京阪神の銭湯経営者に北陸出身者が多い背景には、明治期以降に整備された鉄道網がある。北陸本線や信越本線の開通により、若者の都市移住と定住が加速し、都市部に下宿や銭湯といった生活インフラが整備された。

人口移動が生んだ分業構造

渋谷・円山町(画像:写真AC)
渋谷・円山町(画像:写真AC)

 銭湯だけでなく、地域のつながりが強かった時代には、ある仕事が特定の地域の出身者によって担われることがあった。渋谷・円山町のホテル街もそのひとつである。ここは奥飛騨の出身者によって作られたといわれている。彼らは、ダム建設で土地を離れ、保証金を受け取ったあと、都市で新しい生活の場を作った。

 この動きは、ただの移住や起業とは異なる。農村の人口が多すぎたため、人が外に出る動きが強まり、都市では働き手を必要としていた。このふたつがかみ合っていた。家の仕組みや相続の決まりによって地元を離れた人々は、都市で違う目的と方法で生活を始めた。

 すでに都市にいた同じ地域の出身者が、関係や資源を作っていた。後から来た人々はそれを使いながら、自分たちのやり方で経済活動を広げた。その結果、都市の中で一定の役割を持つようになった。このような動きは、

「ある集団が、ある産業を受け持つ」

という分業の形である。そこには次のような要素が重なっていた。

・世代をこえたつながり
・社会の仕組みによる制限
・まわりの人の模倣や経験からの学び

 都市は、経済のなかにある不平等を見えるかたちにする場所だった。移動してきた人々は、そのすき間に入り込むようにして、位置を見つけていった。

 ゆえに、東京を形づくってきたのは努力や根性ではなく、人の再配置によって生まれた労働力の分布と、それが何度もくり返されることでできた社会の仕組みなのである。

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