東京の銭湯経営者に「北陸出身」が多い説は本当? 明治~昭和の鉄道網と生活インフラが築いた「見習い少年」たちのネットワーク
銭湯ペンキ絵に見る北陸人脈

北陸新幹線の開業を控えた2012(平成24)年、富山市は観光PRの一環として、都内各地の銭湯のペンキ絵に立山連峰や路面電車「富山ライトレール」を描いた。富山ライトレールは地方都市の公共交通再生の象徴として注目を集めている。この独特なPRが行われた背景には、東京の銭湯関係者に北陸出身者が多いことがある。
富山PRに活用されたペンキ絵は関西や地方ではあまり見られず、東京独自の文化とされる。富士山や立山連峰など山岳風景が多いのも、「ふるさとの記憶」を描いたものと考えられている。
『東京新聞』2012年9月21日付の記事では、同年にペンキ絵が描かれた銭湯として
・菊水湯(文京区。閉業)
・世界湯(中央区。閉業)
・第二日の出湯(閉業)
・燕湯(台東区)
・松の湯(墨田区)
を挙げている。これらは店主やその親が富山市など北陸出身だった。東京都公衆浴場業生活衛生同業組合によると、
「富山、石川両県出身者の創業者や店主が多いのは、農家の次男や三男が都会に出て下積みを重ね、独立して自分の店を持ったことが理由といわれるという。雪の多い厳しい自然環境で培った粘り強さも関係しているとみている」(同紙)
という。
戦後期には鉄道だけでなく、国鉄バスや長距離夜行バスも広く活用された。都市間移動の選択肢は増え、フェリーや貨物列車を経由する移動も一部で行われた。特に荷物を持つ長距離移動には物流インフラとの連携が不可欠だった。
1960年代初頭から半ばにかけては、旧盆や年末の帰省時期に貸切バスを使った会員制の「帰省バス」が運行された。主に夜行の長距離バスで、大都市から地方都市へ向かった。当時は東名高速や名神高速以外の高速道路は開通しておらず、ほとんどが一般国道での運行だったため所要時間は長かった。しかし帰省ピークでも座席が確保されることから好評を博した。
昭和30年代以降はマイカー移動も普及した。兄弟や親戚間の移動・訪問が柔軟になり、銭湯経営者の人的ネットワークを支える一因となった。