東京の銭湯経営者に「北陸出身」が多い説は本当? 明治~昭和の鉄道網と生活インフラが築いた「見習い少年」たちのネットワーク

キーワード :
,
東京や京阪神の銭湯経営者に北陸出身者が多い背景には、明治期以降に整備された鉄道網がある。北陸本線や信越本線の開通により、若者の都市移住と定住が加速し、都市部に下宿や銭湯といった生活インフラが整備された。

出世構造と労働環境

銭湯(画像:写真AC)
銭湯(画像:写真AC)

 講演録『渋谷学02』のなかで、吉田氏は、かつての銭湯業界の構造について言及している。

 現代の銭湯は機械化が進み、省人化が可能になっている。一方、昭和期以前の銭湯は多人数労働を前提とした重労働の現場だった。銭湯で身を立てようとする者は、まず見習い小僧として修業を始め、つてを頼って銭湯に入り、

「仲 → 三助 → 番頭 → 独立」

と昇進していくか、あるいは請負業者の元で複数の店舗を転々としながら地位を築くという二通りのルートが存在した。

 特に後者のルートでは、労働力を提供する「部屋制度」が機能していた。これは親分・子分の関係性に基づく人材供給システムであり、昭和期まで継続していた。こうした仕組みの中では、同郷や同属性の人間でグループを形成する傾向が強まる。結果として、もともと北陸出身者が多かった銭湯業界には、さらに同地域出身者が集まりやすくなるという、地縁・血縁の再生産構造ができあがっていたと考えられる。

 講演で吉田は、1914(大正3)年刊の異色ルポ『人生探訪変装記 戦慄す可き人生暗黒面の暴露』(互盟社)を取り上げている。著者・知久泰盛は、足尾銅山や遊廓、風俗産業などに身を置き、労働現場の実情を記録した。その一章「湯屋の三助となる記」では、銭湯労働者の出身地について、次のような記述がある。

「八分通りは越前、越中、越後、能登」
「この四カ国以外の者を場違い」

当時から、銭湯における北陸出身者の存在感は圧倒的だったことがうかがえる。

全てのコメントを見る