京成上野駅がJR上野駅から離れた「地下」に存在するワケ
京成上野駅はJR上野駅から距離があるものの、地下に設けられた独特な構造と長年の苦闘の歴史が光る。1903年の路線計画開始から1933年の上野公園地下駅開業まで、6回の都心乗り入れ申請や皇室御料地の許可取得など多くの困難を克服し、成田参詣客輸送で需要を牽引した歴史を持つ。
皇室御料地を巡る延伸の難関

それでも京成電気軌道は都心乗り入れを諦めなかった。そんななか、筑波高速度電気鉄道という投機目的の鉄道事業者から路線免許の売却提案があった。対象路線は上野方面へ向かうものだった。この免許を取得し、ついに京成電気軌道は上野への延伸を実現した。
この際、現在の位置に「上野公園駅」として駅が建設された。なぜ上野公園の地下に駅を設けたのかは明確でない。国立国会図書館のデジタル資料(1929年2月12日付官報)によると、筑波高速度電気鉄道の免許の起終点は「東京市下谷区上野公園地」とあり、駅位置は京成電気軌道の決定ではなかったことがわかる。
すでに繁華街だった上野で駅設置が可能な場所はここしかなかったことや、東京市内に私鉄が進出することへの拒否感があった可能性が考えられるが、決定的な資料は見つかっていない。
無事に免許を得たものの、上野への延伸工事は容易ではなかった。上野の山の地下に路線を建設するため、一部が皇室の御料地だったことから御前会議(天皇出席の合同会議)が開かれ許可を得た。また、公園地下の掘削では桜の根を傷つけないよう配慮する難題もあった。
こうした困難を乗り越え、京成上野駅は1933(昭和8)年12月に上野公園の地下に開業した。会社設立以来の悲願を達成した感慨からか、上野の山の北側、京成上野駅へ接続するトンネル入口には初代社長・本多貞次郎の額が4枚の御影石に「東臺門(上野の山の意味)」と刻まれて掲げられている。