なぜ「西武新宿駅」は新宿駅から400mも離れているのか? 「徒歩5分」の断絶が生んだ都市構造の変化
都心に残された「400mの断絶」。乗降客数世界一を誇る新宿において、西武線はなぜ最後まで接続されなかったのか。13km・65m地下構想も頓挫し、都市構造までも変えた未接続の深層に、制度・資本・合理性が交錯する戦後都市の縮図が浮かび上がる。
計画白紙に至る設備不備

西武新宿線は1927(昭和2)年に、高田馬場駅から都心への接続を始めた。戦前には早稲田方面への延伸も検討されたが、これは実現しなかった。
戦後になると、西武鉄道は新宿駅への乗り入れを再び構想した。1952年には、新宿駅前の区画整理が終わっていなかったため、「仮設」の形で西武新宿駅を開業した。これは将来、新宿駅へつなぐことを前提とした一時的な対応だった。
当時の新宿駅周辺には、旧国鉄・京王電鉄・都電などが交差していた。さらに、戦後まもなく闇市が広がったことで、街の秩序が崩れていた。こうした状況が、接続計画を進めるうえでの大きな障害となった。
1960年代に入ると、西武鉄道は新宿駅への乗り入れ計画を本格的に進めた。新宿駅東口に建設される新宿ステーションビル(現在のルミネエスト)の2階に、西武線を引き込む計画が立てられた。駅ビルの構造にもこの案が組み込まれ、高架の基礎もつくられた。計画はかなり進んでいた。
しかし、予定されていたホームは島式1本で、最大6両編成にしか対応できなかった。当時は高度経済成長の中で通勤・通学需要が増え、8両編成が主流になりつつあった。こうした状況に対し、ホームの規模は明らかに不足していた。
このずれが致命的となり、1965年には計画は白紙に戻された。東京西部から新宿へ大量の乗客を運ぶには、十分な設備が必要だった。西武はこの案を断念し、接続は実現しないままとなった。