「丸ノ内線 = 地下鉄」なのに、思いっきり「地上」を走っている理由

キーワード :
, ,
東京の丸ノ内線は、地下鉄と呼ばれながら茗荷谷から後楽園まで地上区間を走る異例の路線である。1950年代の復興期に、限られた予算や地形制約の中で建設費を抑えるため、開削工法と新設道路の利用が選ばれた。後楽園駅の高架も路面電車との共存や東西線接続計画に基づく。制度上は地下鉄と認められつつも、住民の認識とずれがあり、乗換利便に影響を与えている。丸ノ内線は戦後東京の都市政策と制度の歴史を示す象徴的存在である。

制度の隙間に生まれた高架設計

丸ノ内線(画像:写真AC)
丸ノ内線(画像:写真AC)

 後楽園駅が地上にあるのは、土地のかたちと行政の計画が重なった結果である。『東京地下鉄道丸ノ内線建設史』(帝都高速度交通営団)によると、春日や本郷三丁目のあたりは高低差が大きく、地下にトンネルを通すには大きな穴を掘って構造物をつくる必要があった。

 その一方で、当時この地域には都電(路面電車)の路線が走っていた。これをさけるには、鉄道を道路の上の空間に通す「高架構造」がもっとも効率的だと判断された。

 鉄道の設計は、交通のしくみのすきまに入りこむように決まる。都市の地下には、上下水道、電線、通信ケーブル、ガス管などの設備が広がっている。それらをさけて鉄道をつくるには、制度と制度のあいだにある、まだ使われていない空間を見つける必要がある。

 こうした空白の土地は、予算や都市計画の調整によって生まれる。その代表的な例が、後楽園駅の高架区間である。

 もうひとつ注目すべき点は、丸ノ内線が将来つながる予定だった「第5号線」(のちの東西線)の影響である。1950年代のはじめには、後楽園駅で高田馬場方面から来る新しい路線とつなげる計画があった。駅が地上にあれば、あとから路線を分けたり合流させたりしやすい。こうした考えにもとづき、後楽園駅は高架式でつくられることになった。しかしその後、東西線のルートは変更され、当初予定されていた接続は行われなかった。

 ここで見逃してはならないのは、まだ決まっていない将来の計画であっても、いったん構造物ができると、それが実際のインフラに組み込まれてしまうという点である。つまり鉄道は、計画と現実のズレをそのまま構造として残していく。丸ノ内線の地上を走る区間は、もともと考えられていた接続計画のあとを物語っている。

全てのコメントを見る