「運転するな」「免許返納しろ」…じゃあ、高齢ドライバーはどう移動すればいいのか? 制度なき“正論”が生む交通弱者という構造的孤立
移動困難が招く命の危機

交通手段を奪われることの本質は、物理的移動ができなくなること以上の意味をもつ。たとえば、スーパーが自宅から3km先にしかなく、そこまで行くバスが廃止された場合、高齢者は食料調達という日常的行為すら制限される。
また、月1回の通院も家族の送迎があれば大丈夫というのは幻想だ。そもそも家族が近くに住んでいないケースも多く、仮にいたとしても、平日昼間に毎月送迎できるほど余裕のある家庭は稀である。こうして高齢者は
・買い物難民
・通院難民
となり、最終的には社会から孤立していく。
移動ができないことは、生活の質だけでなく、命の問題でもある。救急搬送の遅れや、早期治療の断念が、寿命の短縮につながるケースも報告されている。自治体が支援に乗り出すにも、財源が足りない。いまや、交通は行政サービスのなかでも
「最も後回しにされる分野」
のひとつだ。一部の自治体では、免許返納者にタクシー券を支給したり、バスの割引制度を設けたりしているが、こうした施策はごく限られた範囲の応急処置にすぎない。そもそもタクシーのドライバーが不足しており、いざ予約しても「車が出せません」と断られるケースもある。バスも、停留所まで徒歩15分という立地であれば、高齢者にとってはすでに実質的に使えない交通手段だ。
つまり、制度の隙間はあまりにも大きく、それを個人の努力や我慢で埋めることは不可能に近い。にもかかわらず、インターネット上の意見も行政もメディアも
「免許返納をすれば安全になる」
とだけ強調する。そこに生活が成立するか否かという根本的な視点が欠落している。
本来、ここまで生活の基盤が揺らげば、大規模な社会的抗議が起きても不思議ではない。だが、高齢者の多くは
「迷惑をかけたくない」
「我慢するしかない」
という戦後的価値観に縛られている。これが逆に、事態の深刻さを外部に伝える力を奪っている。
さらに、都市部で暮らす人々にとって、地方の交通崩壊は自分には関係ない話であるかのように映る。その無関心が、制度改善への圧力を生まない。政治的コストが小さいから、改善されない。この
「冷静な無関心」
が、構造的な孤立を温存させている。