創業者は「トヨダ」なのに なぜ企業名は「トヨタ」なのか?
関東大震災と自動車普及の関係

日本国内の自動車普及を後押ししたのは、1923(大正12)年に関東大震災が発生したことだった。東京圏の鉄道網が壊滅的な打撃を受けると、鉄道の代替としてバスが市民の足を担う。
バスによって自動車は拡大していくが、国内で自動車を製造できるメーカーはなかった。政府はアメリカのフォード社から輸入していた。喜一郎は1929(昭和4)年にイギリスへ出張。イギリス出張は新型織機の販売や特許契約が目的だったが、合間を縫って各地の自動車工場を視察する。こうした経験を積み重ねて、喜一郎は社内で自動車開発のための研究を開始した。そして、1933年に社内に自動車部という部署を新設する。
喜一郎が自動車部を設立する前年、豊田式織機は名古屋を地盤とする日本車両製造・大隈鉄工所・岡本自転車自動車製作所・愛知時計電機と合同で自動車を製作。完成した乗用車は「アツタ号」と名付けられるが、豊田自動織機製作所は独自にキソコーチ号というバスも製作していた。
名古屋市長の大岩勇夫は、自動車産業の機運が高まることを見越して名古屋を自動車産業が盛んな都市にしようと考える。そして、中京デトロイト構想を打ち出した。
しかし、安定的な自動車製造は容易ではなかった。特に、難しかったのがエンジンの設計・製造だった。自動車製造には高度な鋳造技術もさることながら、良質な鋼板が不可欠だった。これらの材料が調達できなければ、自動車を安定的に生産することはできない。そうした理由から、社内には原材料の調達を専門に受け持つ製鋼部が新設された。
現社名は40年前から

こうした難題をクリアし、工場建設のメドが立った1937(昭和12)年、豊田自動織機製作所から独立する形でトヨタ自動車工業が誕生する。
現社名はトヨタ自動車だが、発足当時は「工業」という文字が社名に入っていた。工業がついていた理由は、喜一郎が自動車を普及・販売するために製造と販売の担当を別々にする必要があると考えていたからだ。現社名へと変わるのは1982年で、それまでのトヨタは工販を分離し、それぞれが役割を果たした。
トヨタが自動車を普及させるために打ち出した戦略は、工販分離だけではない。織物機械メーカーからの自動車メーカーへと進化したことを内外に示すため、事前にロゴマークを一般公募していた。
その際、社名を「TOYODA」から「TOYOTA」へと改めている。TOYODAからTOYOTAへの改称した公式見解は、
・1:濁音がない方が語感がいい
・2:創業者一族の名字から決別することで個人企業から社会的企業へと発展する
・3:濁音のないトヨタだと画数は8になり、それは漢字で「八」となり末広がりにつながる
というものだった。
どちらも漢字で書けば豊田になるので見分けはつきにくいが、アルファベットにすればその違いは明白だ。明らかに世界進出を意識した改称であることがうかがえる。
トヨタは製造開始時点から自動車の普及拡大を見据え、そして販売開始時点で販路を世界へ広げることを目指した。トヨタが世界一企業へと成長したのは、その技術力・販売力もさることながら、なによりも時代を捉えた先見性と言っていい。