「赤字だから仕方ない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が1ミリも同意できないワケ
近年、赤字ローカル線の廃止論が加速するなか、効率性一辺倒の議論が地域社会の価値を見失わせている。特に久留里線の例では、1日60人の利用者と高い営業係数が廃止理由に。しかし、合理化の先に潜む「鉄の檻」の問題を考えると、公共交通が持つ社会的意義を再考する必要がある。
地域交通を再評価する視点

「鉄の檻」からの解放は、簡単な道のりではない。近代社会が進めてきた合理化は、私たちの思考に深く影響を与え、効率性が優先される構造を作り出してきた。しかし、この状況を打破する道は確実に存在する。
まず、地域の価値を評価する新しい基準が必要だ。路線存続が教育機会や医療アクセスにどう寄与するのか、観光資源としての潜在力はどれほどか、災害時にどれだけの役割を果たすかといった、多面的な視点での評価が求められる。こうしたアプローチにより、これまで見過ごされてきた公共的価値を明確にし、地域の本来の可能性を可視化できる。
次に、公共交通を「コスト」ではなく「投資」として捉える視点が重要だ。地域の交通網は、住民の生活や未来を支える基盤であり、維持にともなうコストは、地域の持続可能性を実現するための必要不可欠な投資だ。効率性と公共性を両立させる道は難しいが、若桜鉄道が示したように、それは実現可能な挑戦だ。半世紀前、田中角栄氏はこう語っている。
「私は、鉄道はやむを得ないことであるならば赤字を出してもよいと考えている。本当にもうからなければならないならば国がやる必要がない。もうからないところでも、定時の運行をして経済発展という立場でこそ国有鉄道法(による鉄道)の必要があると思う」
公共交通の本質的な価値は収支や効率性では測れない。それは地域の未来を創る基盤であり、社会の持続可能性を支える重要な要素だ。今こそ、効率性の「鉄の檻」を超え、より豊かな公共的価値を追求する新しい視点を持つときだ。