「赤字だから仕方ない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が1ミリも同意できないワケ

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近年、赤字ローカル線の廃止論が加速するなか、効率性一辺倒の議論が地域社会の価値を見失わせている。特に久留里線の例では、1日60人の利用者と高い営業係数が廃止理由に。しかし、合理化の先に潜む「鉄の檻」の問題を考えると、公共交通が持つ社会的意義を再考する必要がある。

公共交通廃止の真の影響

ウェーバーの生まれたドイツ中央部のエアフルト(画像:写真AC)
ウェーバーの生まれたドイツ中央部のエアフルト(画像:写真AC)

 この問題は、私たちの日常でも顕著だ。例えば、現代の教育評価のあり方がその一例といえる。生徒が持つ多様な能力――運動や芸術的な才能、共感力といった数値化が難しい価値――が、テストの点数というひとつの基準に還元されてしまう傾向がある。これは合理化による「非人格化」の典型だ。

 一方で、教育現場では依然として教師と生徒の個人的な関係が重要視されている。「非人格化」と「人格化」が同時に進行している現状が、教育の中でも見て取れる。

 公共交通の問題も同様の視点で考えられる。乗客数や収支などの数値は確かに重要だが、それだけでは地域コミュニティの維持、高齢者の医療アクセス、子どもたちの教育機会、地域文化の継承といった、本来数値化できない価値を見失う危険性がある。これこそ、私たちが「鉄の檻」に囚われている現実を象徴している。

「鉄道が無くなる = 街が寂れる」

という単純な図式については、否定的な研究結果もある。しかし本質的な問題は、効率性という枠組みに囚われて公共交通の多面的な価値を見失っている点だ。

 公共交通の廃止は単に移動手段を失うだけでなく、地域社会そのものの衰退につながる。人々の暮らし、文化、つながりといった数値では表せない価値が徐々に消えていく。この問題を

「赤字だから仕方がない」

という効率性の論理だけで片付けるべきではない。

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