「赤字だから仕方ない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が1ミリも同意できないワケ
近年、赤字ローカル線の廃止論が加速するなか、効率性一辺倒の議論が地域社会の価値を見失わせている。特に久留里線の例では、1日60人の利用者と高い営業係数が廃止理由に。しかし、合理化の先に潜む「鉄の檻」の問題を考えると、公共交通が持つ社会的意義を再考する必要がある。
効率追求の代償、自由の喪失

物事を数字や効率だけで判断する思考は、近代社会が抱える病理として、以前から指摘されている。
ウェーバーは、近代社会の本質的な特徴として「合理化」の進展を挙げ、社会のあらゆる分野で
・計算可能性
・予測可能性
が重視されるようになったと分析した。その結果、企業は収益性を、行政は効率性を追求し、数値化しにくい価値が軽視される傾向が生まれた。ウェーバーはこれを「鉄の檻」と呼び、合理性を最優先することで社会が抱えるリスクを警告している。
合理化が行き過ぎると、次のような問題が生じる。
●個人の自由の制約
過度な合理化は、個人の自己決定や柔軟な行動の自由を奪い、定められたルールに従うことを強制する。社会全体が「鉄の檻」のように硬直化すると、人は単なる「歯車」に過ぎなくなり、創造性や自由な発想が制限される。
●非人間的な社会
効率性の追求が行き過ぎると、社会や組織は冷徹で非人間的なものへと変わる。人々は機械的な効率性だけで扱われ、感情や存在が軽視される。
●社会的・倫理的価値の軽視
合理化が進むほど、社会的な公平性や倫理的な判断が犠牲になる。効率が最優先されることで、人間らしさや社会的なつながりが後回しにされる危険がある。
●創造性と革新の抑制
手続きが極度に合理化されると、新しいアイデアや革新的な取り組みが生まれにくくなる。その結果、組織や社会全体が停滞するリスクが高まる。
ウェーバーが指摘した「鉄の檻」は、近代社会が効率性や合理化を追求しすぎることで、人々の自由を奪い、冷たく非人間的な社会を生み出してしまう可能性を警告している。この考え方は、現代社会においても重要な示唆を与えているといえるだろう。