「赤字だから仕方ない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が1ミリも同意できないワケ

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近年、赤字ローカル線の廃止論が加速するなか、効率性一辺倒の議論が地域社会の価値を見失わせている。特に久留里線の例では、1日60人の利用者と高い営業係数が廃止理由に。しかし、合理化の先に潜む「鉄の檻」の問題を考えると、公共交通が持つ社会的意義を再考する必要がある。

経済性一辺倒の限界

近代社会学の創始者であるマックス・ウェーバー
近代社会学の創始者であるマックス・ウェーバー

 赤字ローカル線の廃止を主張する声は、路線の価値を経済性というひとつの指標で判断しがちだ。例えば、JR東日本千葉支社が2024年11月に発表した久留里線の一部区間(久留里~上総亀山駅)の廃止も、利用者の少なさと赤字が主な理由とされている。

 この区間では1日に17本の列車が運行されているが、平均利用客数は約60人にとどまる。さらに、運営にかかる費用を示す「営業係数」は1万3580円と非常に高い。地元との協議では

「移動需要に対して輸送力が過大」

との意見が示され、バス転換が提案された。このように、利用者が少なく運賃収入で経費をまかなえない路線は速やかに廃止すべきだという考え方だ。

 この立場には、近代資本主義の基本理念が反映されている。限られた資源を効率的に配分し、赤字を続ける事業は社会全体に損失をもたらすという理論だ。しかし、「赤字だから即廃止」という単純な判断には疑問が残る。

 数字だけで地域の価値を評価することは、近代化がもたらした問題のひとつを象徴している。公共交通の意義は単なる収益性にとどまらず、地域住民の生活や地方社会の持続可能性を支える役割も担っているはずだ。

 この視点を無視した議論は、短期的な効率性を追求するあまり、長期的な地域社会の価値を見失うリスクをはらんでいる。

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