愛知と三重の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?
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1964年の構想から半世紀以上、実現を見ないまま議論が続いている「伊勢湾口道路」。当初は地域開発の象徴として期待を集めたものの、国土軸という抽象的な概念への疑問や、地域間の対立など、さまざまな壁にぶつかってきた。しかし、近年では「エイト構想」の一環として、交通ネットワークの拡充や災害時の代替ルートとしての役割が期待され、再び注目を集めている。本稿では、伊勢湾口道路が歩んできた道のりと、その未来の可能性について探る。
1964年からの構想
もしも、ここに橋があったら……?
津軽海峡や豊予海峡など日本各地には、未完の架橋計画が数多くある。いずれの計画も新たな国土開発と地域振興のために熱望されながらも、実現には至っていない。そのなかのひとつに、伊勢湾口に長大な吊り橋を架ける「伊勢湾口道路」というものがある。
愛知県の渥美半島から伊勢湾を横断して三重県の志摩半島とを繋ぐ構想だ。未完の計画のなかでも、津軽海峡や豊予海峡に比べると、あまり注目されることのない計画。もしも、ここに橋があれば、いったいどんな未来が描かれるのか。まず、この架橋がどのような目論みで構想されたかを解説していこう。
伊勢湾口への架橋が最初に提唱されたのは、1964(昭和39)年に政府の要請で実施された国連調査団のアーネスト・ワイズマンによる、いわゆる「ワイズマン報告」である。この報告では
「伊勢湾を環状に走る交通容量の大きな道路が必要であり、そのために渥美半島と鳥羽を結ぶ道路」
が必要だと提唱している。
この構想は、伊勢湾口への架橋とともに、その周辺の陸上部分を環状道路で結ぶことを目指していた。それにより湾岸地域の移動を容易にし、中部地域全体の一体的かつ均衡ある発展を実現しようとしたのである。