愛知と三重の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?

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1964年の構想から半世紀以上、実現を見ないまま議論が続いている「伊勢湾口道路」。当初は地域開発の象徴として期待を集めたものの、国土軸という抽象的な概念への疑問や、地域間の対立など、さまざまな壁にぶつかってきた。しかし、近年では「エイト構想」の一環として、交通ネットワークの拡充や災害時の代替ルートとしての役割が期待され、再び注目を集めている。本稿では、伊勢湾口道路が歩んできた道のりと、その未来の可能性について探る。

分散型開発へ、伊勢湾口道路の役割

1999年に発表された書籍『21世紀の国土のグランドデザイン: 地域の自立の促進と美しい国土の創造』(画像:時事通信社)
1999年に発表された書籍『21世紀の国土のグランドデザイン: 地域の自立の促進と美しい国土の創造』(画像:時事通信社)

 この新しい「三遠伊勢連絡道路」構想は、従来の計画とは本質的に異なる意義を持つものとなった。

 かつての計画は名古屋市を中心とした求心的な発展を目指すものだった。しかし新構想は、静岡・愛知・三重という各地域が持つ固有の文化や自然を活かしながら、それぞれが独自の発展を遂げることを目指している。つまり、名古屋という大都市への一極集中から、

「地域の多様性を活かした分散型の発展」

へと、その理念は大きく転換したのである。この地域を重視した構想への転換により、架橋実現への期待は高まった。「21世紀の国土のグランドデザイン」の決定を前に建設省による調査が予定されていた1995(平成7)年の『中日新聞』では

「伊勢神宮の次の式年遷宮(2013年=平成25年)までの開通が目標という「夢の架け橋」は、実現に向けてゆっくりと動き出す」

とまで記しており、実現に向けた期待値が極めて高かったことを示している。また、この記事では、こんな記述もある。

「伊勢湾口道路は、愛知県が表に出がちな中部地方の大規模プロジェクトの中では珍しく、三重県主導と言っていい。三重県は、故田川亮三前知事が今春の引退前に行った機構改革で、スタッフ五人の「伊勢湾口道路建設推進室」を発足させた。専門の部署設置は、もちろん同県がトップを切ってのこと」

 ここには、単なる道路建設という以上の、三重県の地域としての切実な思いが込められていた。それまで三重県は、愛知県、とりわけ名古屋市という圧倒的な中心の影に埋もれ、中部圏の周縁的な立場を余儀なくされてきた。しかし、この伊勢湾口道路は、三重県が

「紀伊半島の玄関口」

として独自の発展を遂げるための起爆剤となる可能性を秘めていた。つまりこの計画は、インフラ整備という枠を超えて、三重県が名古屋圏の「周辺部」という立場から脱却し、独自の

「地域アイデンティティ」

を確立するための象徴的なプロジェクトとしての意味を持っていたのである。

 この新しい構想は、ちょうど中部圏全体が大きな発展の機運に包まれていた時期と重なっていた。中部国際空港の建設や2005年の愛知万博を控え、東海三県が経済的な好調さを見せるなか、伊勢湾口への架橋の夢も、より現実味を帯びて広がっていったのである。

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