昭和の日本人はなぜ海外で“暴走”したのか? 90年代まで続いた「売春ツアー」、経済大国の蛮行が現代に問いかけるものとは

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1960年代、日本の経済成長とともに、売春ツアーが東南アジアでまん延。現地女性を商品化し、週刊誌で暴露されると、国際社会から非難が殺到。経済大国の傲慢が生んだ悲劇は、今のインバウンド問題にも影響を与え続けている。

台湾から韓国へ移行

現在の韓国(画像:Pexels)
現在の韓国(画像:Pexels)

 しかし、1970年代に入ると台湾の経済発展にともなって物価が上がり、日本人観光客の数は次第に減少した。

『アサヒ芸能』1974年8月1日号の記事によると、以前1時間200元(約1400円)だった芸者の玉代(ぎょくだい。主に日本や韓国などで、芸妓や売春婦に支払う料金を指す言葉)が、1974年2月からは300元(約2100円)に値上がりしていた。

 その後、台湾に代わる売春目的の旅行先として人気が高まったのが韓国だった。韓国では、売春ツアーは現地語で芸妓を意味する言葉を用いて「妓生(キーセン)観光」として知られたが、政府の姿勢が台湾とは大きく異なった。1960年代以降、韓国では軍事政権の経済開発政策の一環として外貨獲得を目的に観光産業が積極的に推進され、そのなかで

「必要悪」

として黙認され、事実上奨励されていた。その背景には、キーセン観光がもたらす多大な外貨収入があった。1970年代から1980年代にかけて、韓国政府の幹部は

「キーセン観光は韓国経済に貢献している」
「愛国行為である」

と発言し、国内外で物議を醸した。1973年の観光収入は2億31万7000ドルに達し、キーセン観光からの収入は純粋な外貨となり、借款(国が他国から資金を借りること)とは異なり、韓国経済にとって重要な財源となった。

 この収入は、政治的孤立や経済的困難に直面していた朴正熙政権にとって、貴重な支援となった。

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