知の傲慢と対峙する「無知の知」とは何か?【リレー連載】本田宗一郎「わからないからいい」を再考する(1)

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わからないからいいんだね――。日本自動車界の伝説・本田宗一郎は、生前のテレビ番組で「無知の知」を説いた。現代社会は合理化が進み、物事の予測可能性は上がった。そしてビジネスマンは知識武装し、SNSは「知」と自己顕示欲に満ちている。そんな今こそ「無知の知」に立ち返り、知の傲慢と対峙すべきではないか。

エンジン開発の舞台裏

年間チャンピオンに決まり、マクラーレンホンダのスタッフ、チームメイトのプロスト(右)と喜ぶセナ。オーストラリアで。1988年11月12日撮影(画像:AFP=時事)
年間チャンピオンに決まり、マクラーレンホンダのスタッフ、チームメイトのプロスト(右)と喜ぶセナ。オーストラリアで。1988年11月12日撮影(画像:AFP=時事)

 一方、そんな人間としての優しさを持つ一方で、技術に関しては“異常なまでの頑固者”でもあった。宗一郎が亡くなった1991(平成3)年は、いわゆるバブルの絶頂期にあたる。クルマやモーターサイクルが異常な好景気に沸き、最新技術を搭載したモデルが次々と市場に投入されていた。

 市販車だけでなく、クルマもモーターサイクルも国内外のトップカテゴリーで圧倒的なパフォーマンスを見せていた。まさにホンダの春の時代だった。

 しかし、この時期の少し前、ホンダのクルマとモーターサイクルも、宗一郎のわがままに翻弄(ほんろう)されていた。クルマは空冷エンジンに狂気じみたまでにこだわり、ホンダのオートバイは2ストロークサイクルにこだわっていた。そしてモーターサイクルは、2ストロークサイクルを嫌ったのである。

 前者については、

「水冷だって最終的には空気で水を冷却するのだから最初から空気で冷やした方がムダがない」

という発想から、F1マシンのホンダRA302を投入したが、失敗作の烙印(らくいん)を押された。その後市販されたホンダ1300は、パワフルなスポーツモデルとして注目を集めたが、空冷であることはさまざまな問題を引き起こし、結局水冷エンジンへの転換を余儀なくされた。

 1970年代初頭、ホンダは2ストロークのモーターサイクルで世界のモトクロス市場に参入しようとしたが、宗一郎の反対で一部のエンジニアが独自に開発を進めるという、今では考えられない事態に陥った。

 結局、宗一郎は根負けし、市場への参入を認めた。1973(昭和48)年に経営の第一線から退いたが、1983年まで技術面で強い影響力を発揮し続けた。これが混乱の原因でもあった。

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