16戦15勝! 1988年のF1「マクラーレン・ホンダ」はなぜ無敵だったのか

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1988年のF1で、マクラーレン・ホンダは、全16戦中15勝という驚異的な成績を記録し、コンストラクターズタイトルを獲得した。なぜここまで圧倒的な強さを誇ったのか。

1983年にF1復活

年間チャンピオンに決まり、マクラーレンホンダのスタッフ、チームメイトのプロスト(右)と喜ぶセナ。オーストラリアで。1988年11月12日撮影(画像:AFP=時事)
年間チャンピオンに決まり、マクラーレンホンダのスタッフ、チームメイトのプロスト(右)と喜ぶセナ。オーストラリアで。1988年11月12日撮影(画像:AFP=時事)

 ホンダは、1964(昭和39)年から1968年までの第1期F1から、15年の時間を経た1983年にエンジンサプライヤーとしてF1に復活を果たした。

 シャシーパートナーはホンダが資金を提供し新たに創設したスピリットである。ここからのチャレンジで選択したエンジンは、かつて手掛けていたホンダならではの高回転自然吸気とは一線を画する高過給ターボエンジン。

 時代は自然吸気からターボ過給へと「勝てるエンジン」が明確になったことが理由だった。ホンダにとって技術的な蓄積はほとんど無く、ほぼゼロからのスタートだったこともあり、実戦で使い物になるまではそれなりの熟成期間が必要だった。

 とはいえ、ここからホンダが注ぎ込んだ人的および資金的な物量は相当なものだった。翌1984年にはシャシーを新たに実績があったウイリアムズとしたことも功を奏し、復活後初優勝を記録する。さらに1985年には4勝を、1986年には9勝を挙げついにコンストラクタータイトルを得る。ホンダのエンジン開発力がついにF1の頂点に達したということである。

 なおターボエンジンであれば、その最高出力は過給圧の大小に左右されていたわけだが、この時点で使用できる過給圧に制限は無く、多くの場合で最大過給圧はおおむね7バール(7気圧)といわれていた。最高出力は1500ccの排気量から予選時の短時間仕様で1000ps以上、ある程度の耐久性を担保した決勝仕様でも800ps前後を発揮していたといわれている。

 しかし、このある意味破天荒だったターボエンジンのパワー競争を危惧した国際自動車連盟(FIA)側は最高出力を抑える策に着手することとなる。燃料タンク容量を220リッターから195リッターに制限したのが1986年。1987年には最大過給圧を4バールに制限したが、技術革新が進んだことで最高出力はむしろ上回った。

 そしてこの年に、2年後の1989年から過給エンジンを禁止する旨が発表された。

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