京都市の「観光公害」 45年前廃止の「市電」が現役だったら避けられた?
廃止を巡る党派抗争
例えば、前述の審議会答申が出された直後の1965(昭和40)年12月、軌道内における自動車の通行が解禁された。答申は、都市の将来像として地下鉄を中心とした交通体系を提案している。
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そこには、「軌道内への自動車通行を認めるべき」とはどこにも書かれていない。にもかかわらず、軌道内通行を解禁したのは、自動車の通行をスムーズにすることだけが目的だった。当然、路面電車は定時運行ができなくなり、乗客は減り、赤字が拡大した。
公共交通としての価値を下げる措置がとられたのは、歴代の京都市長が常に政争の渦中にあったからだと思われる。このことは、都市交通研究者の戸田千速氏の論文「京都市におけるLRT(次世代路面型電車)導入を巡る諸問題と提言」(『エリア山口』第37号)でも、次のように指摘されている。
「旧京都市電の存廃を巡る議論においては政党間の代理戦争という側面もあり、京都市と廃止運動側の間で、例えば外周線だけでも存続させるといった妥協策が図られることもなく、結局、市電は1978年に全廃に追い込まれた」
ここで述べられている代理戦争の一例として、富井清市長の存廃を巡る論争がある。富井は1967年に社会党と共産党の支持を得て当選した。
選挙では市電存続を前提とした再建案を打ち出したが、市議会では少数与党だったため、地下鉄推進の自民党と激しく対立。富井は同年9月市議会に再建案を提出したが、自民党とこれに同調した公明、民社が反対し、共産党も大企業に協力金を要求して反対に回り、否決された。
窮地に追い込まれた富井は、11月市議会に市電全廃と地下鉄推進を前提とした再建案を提出し、ついに可決にこぎつけた。1970年には、市電の早期撤去と職員給与の引き上げを柱とする再建案を巡って、再び共産党と対立した。
こうした政争に嫌気が差したのか、富井は1971年の市長選には出馬せず、1期で辞職した。後任の舩橋求己(もとき)は、初当選時に社会党と共産党の支援を受けたが、任期中に政党間の対立が激化し、2期目以降は自民党、民社党、公明党の共同支援体制で再選を果たした。