東急創業者はなぜ“強盗”と呼ばれたのか? 鉄道会社と敵対的買収、不採算路線切り捨てに巣食う現代の“物言う株主”たち

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鉄道業界は、かつて激しい買収劇が繰り返されていた。東急グループの創始者・五島慶太のエピソードと、今後の鉄道会社が直面するリスクについて考える。

武蔵電鉄の常務となった五島

五島慶太(画像:青木村)
五島慶太(画像:青木村)

『私の履歴書』によると、五島は、途中回り道をしながら1911(明治44)年に29歳で東大法科を卒業し、農商務省に入ったが、工場法の施行が延期になったことで鉄道院に入ることになったという。

 1920(大正9)年に五島は鉄道院を辞め、武蔵電気鉄道の常務取締役となる。武蔵電気鉄道は1910年に設立され、東京・日比谷から横浜・平沼橋間の免許を持っていたが、資金が集まらずに建設できないでいた。1920年に郷誠之助が社長になったが、建設のためには専門の常務がほしいということで五島に白羽の矢が立ったのである。

 たまたまその頃、渋沢栄一が田園都市住宅を作るために田園調布と洗足に45万坪の土地を買って、鉄道を敷設しようとしていた。その経営について渋沢が小林一三(阪急東宝グループの創業者)に相談すると、五島にやらせるのがいいという話になった。

 小林は五島に対して、武蔵電鉄は小さな金ではできないので、まずは荏原電鉄を完成させて45万坪の土地を売り、その金で武蔵電鉄をやればいいといったという。

 五島は荏原電鉄を目黒蒲田電鉄と改称して建設に着手し、1923年に全線を開通させる。この後に関東大震災が起こり、焼け出された人々が沿線に続々と移住したため、目黒蒲田電鉄の業績は上がっていった。

 この後のことについて、『私の履歴書』ではさらっと書いているが、五島は、目黒蒲田電鉄とその親会社である田園都市株式会社の株主の資金を使って、武蔵電鉄の株式の過半数を敵対的に買収している。雇われの常務が会社を乗っ取ったのだ。そして、東京横浜電鉄と改称させて自らは同社の専務となり、1932(昭和7)年に渋谷~桜木町間を開業させた。

 さらに、五島は1934年に池上電鉄を、1938年に多摩川電鉄を傘下に収めていくが、ここでも株式のライバル企業を株式の取得によって併呑(へいどん)していく方法が採られた。

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