自動車vs路面電車 横浜「交通戦争」と消えた市電レールとは
「軌道敷内通行可」で大打撃を受ける

路面電車が廃止された理由のひとつは、モータリゼーションである。「自動車(自家用車など)の急激な普及」によって「道路渋滞が慢性化」したためだった(「横浜にチンチン電車が走った時代」横浜都市発展記念館編)。
横浜市統計などによると、1956(昭和31)年に約2万8000台だった市内の自動車登録台数は、10年後の1966年には11万を超えた。首都高速が開通するのは1970年代以降のことで、道路インフラが整わないまま、10年で4倍に急増したわけである。
こうした状況を受け、1960年10月以降、神奈川県警は市電の軌道敷内の自動車走行を順次認めた。当初は東神奈川駅に近い1km余りの区間だったが、翌年には一挙に19kmの区間が解禁され、52kmのうち20kmが「自動車通行可」に。
その結果、路面電車は一層渋滞に巻き込まれ、定時運転が困難となり、客離れに拍車を掛けた。横浜市交通局による「横浜市営交通八十年史」は、このことが「市電廃止につながる第1歩であった」と位置付けている。
根岸線開業でも打撃、郊外化で存在感低下

だが、市電の廃止を決定づけた要因はモータリゼーションにとどまらなかった。別の大きな要因が、国鉄(現JR)根岸線の開通である。
東海道本線の支線だった横浜~桜木町間を延伸し、独立した根岸線として、1964(昭和39)年に桜木町~磯子間に開通。この結果、並行する市電本牧線などの客を奪うことになった。減少率は
「15%」
にも上り、1億4000万円の減収が生じた。1日に4万2000~4万3000人の客が奪われた計算である。市交通局は運転間隔の拡大や、終電時刻の前倒しなどの合理化に迫られた。
このことは、単にライバル路線が出現したことだけを意味するのではない。横浜市という大都市の構造が、ダイナミックに変化したことの象徴として捉えられる。それが、高度成長期における人口の急増と、それに伴う都市の急速な郊外化だ。1956年に117万人余りだった横浜市の人口は、1968年に200万人を超す。
国鉄根岸線だけでなく、東急田園都市線が川崎市、横浜市の北部に路線を延伸していた1960年代、東京のベッドタウンとして人口流入が続く横浜市にとって必要とされたのは、より広域的な鉄道だった。官庁街がある市中心部は敗戦直後から占領軍による接収が行われ、戦後10年以上も返還されず戦後復興が進まなかったことも、郊外化の一因だろう。
先に説明したように、市電は「旧市街地」の7区だけを対象とした低速の乗り物であり、人口増加が著しかった港北区や緑区など横浜市北部とは無縁の存在だった。新興住宅地のインフラ整備喫緊の課題だった当時の「大都市問題」が、市電の存在感を低下させた。