自動車vs路面電車 横浜「交通戦争」と消えた市電レールとは
横浜市にはかつて、市内を路面電車が縦横に走っていた。最盛期の路線総延長は52km。東京~藤沢間に匹敵する距離である。なぜ、横浜市電は持ちこたえられなかったのか。
「公共性か、独立採算か」に揺れる

1963(昭和38)年に横浜市長に就任した飛鳥田一雄(あすかたいちを)は当初、市電など公営交通について、次のように述べた。
「もともと東京でも、横浜でも、路線の半分は、不採算であります。しかし、もし、赤字を理由に廃止してしまうといえば、民営交通ならいざ知らず、市民の方々は納得しないはずです」
ここで引き合いに出しているのは、1952年に施行された地方公営企業法である。
「公共の福祉」
「企業の経済性」(独立採算制)
の両立を求めた同法の矛盾を、飛鳥田は指摘したのだ。
この矛盾は、いわば「国策」だった。物価上昇の一方で「公共の福祉」のために公営交通の運賃は抑制されたままだった。職員の賃金はベースアップが図られていたから、市電の収支が均衡するはずもなかった。
このために、横浜市では1962~1964年度に計12億円超の減収を余儀なくされた。1964年度の交通事業(市電、バス)の赤字は14億円超。この2年後、不良債務66億円を抱えた市交通局は財政再建団体第1号に指定されるに至った。市電の順次廃止も決まった。
確かに、横浜市電は急速な都市化に追い付かず、競合交通機関の打撃も受けたが、だからといって廃止も当然というほど利用者がいなかったわけではない。1965年度の1日平均乗車人員は、減少傾向にあったとはいえ25万人を数えていたのだ。それよりも、住民サービスと採算という二律背反を、法律的に運命付けられた構造自体に問題があった。
このことは、現在のローカル線存廃論議にも示唆を与える。横浜市電の全廃から半世紀以上が経過した現在もなお、「廃止」を説得させる論理も、「存続」を正当化する論理も、熟しているとはいいがたい。