東京モノレールは開業当初「運賃高すぎ」で倒産しかけていた! 実に国鉄の10倍以上だ
1日の乗降客数約25万人
羽田空港と都心を結ぶ東京モノレールは、空港利用者だけではなく、沿線の通勤通学の人たちにも多く使われている。
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1日あたりの乗降客数は約25万人。1964(昭和39)年の開業以来、2017年には20億人を達成した。そんな東京モノレールだが、過去に廃止の危機を迎えたのをご存じだろうか。
東京モノレールは民間からの発案で建設された。運営会社は「大和観光」で、1959年に設立された。同社は1961年に「日本高架電鉄」に改称し、羽田~新橋間で免許を得て、計画を進めた。
このときにキーマンとなったのが、当時の帝国ホテル社長だった犬丸徹三である。後に日本高架電鉄の初代社長になった犬丸だが、ホテルマンが畑違いのモノレール事業になぜ手を出したのか――それには因縁があった。
モノレール事業への投資
1938(昭和13)年、犬丸が支配人をしていた帝国ホテルにスウェーデンの富豪、アクセル・ヴェナー=グレンが宿泊した。掃除機と冷蔵庫を皮切りに財をなした当時世界有数の富豪である。
グレンはホテルを気に入り、ボーイを譲ってほしいと求めて来た。そのとき、犬丸が指名したのが、後に作庭師として名をなした小栗順三である。戦後、この小栗がドイツ人技師を連れて犬丸を訪ねてきた。グレンが特許の権利を得て設立した「ALWEG社」で開発しているモノレール事業への投資の依頼だった。
犬丸は、日産コンツェルンの創始者である鮎川義介を紹介した。そして、鮎川の支配下にあった日立製作所(当時としまえんにモノレールを納入していた)が本格的に事業に参加することになった。
こうして、ALWEG社と日立の技術提携でモノレールの開発が進められた。その後、犬丸の発案で名古屋鉄道(名鉄)が参加した。名鉄は犬山遊園(現在の日本モンキーパークの前身)に日立製モノレールを走らせていたため、その運行の実務、経営面を担う人材が求められていた。
名鉄も、「東京進出の足がかり」として東京モノレールに期待していた。こうして開通当初には、全社員のうち4分の1にあたる90人が名鉄からの出向者でスタートすることになる。