東京モノレールは開業当初「運賃高すぎ」で倒産しかけていた! 実に国鉄の10倍以上だ
羽田空港と都心を結ぶ東京モノレール。開業当初の知られざる歴史に迫る。
世界初の実用的な都市交通モノレール

建設は新橋での用地確保のめどが立たず、浜松町駅をターミナルに変更しつつ、突貫工事で進行。東京オリンピック直前の1964(昭和39)年に開通した。羽田~浜松町間13kmを15分で走る、世界初の実用的な都市交通モノレールだった。
ところが、当初は物珍しさでにぎわっていたものの、時がたつにつれて乗客は減っていった。
開業の半年間は1日平均1万2000人の乗客があったが、1965年には7500人に減少。1966年に多少盛り返したものの、それでも25%減の9000人程度だった。
開業当初の採算ラインは1日平均3万人だったため、言わずもがな大赤字である。また、オリンピックに間に合わせるための突貫工事で工費が膨らんでいいたこともあり、経営はたちまち危機的状況に陥った。
不振の原因

不振の原因はまず運賃である。開通当初の運賃は片道250円。往復は割引されて450円。なんと
「国電初乗り(当時20円)の10倍以上」
だった。さらに羽田へ向かう高速道路も開通していたため、競合して乗客を伸び悩ます要因となった。
加えて問題となったのが、実務を担う名鉄出向者とそれ以外の社員との対立である。主な対立の原因は
「給与」
だった。名鉄からの出向者は「先生」扱いで、給与は高額に設定されていた。開業直後の盛況が瞬く間に過ぎ去り、赤字運行が明らかになると、これが問題になる。社内では命令系統も破綻寸前となった。
1965年、羽田空港ビル社長だった秋山竜が日本高架電鉄の社長に迎えられる。財界から
「東京モノレールを救えるのは、あなたをおいてない」
と口説かれて仕方なく引き受けたが、累積赤字は約20億円で倒産寸前だった。さりとて公共交通機関のため早々に廃止というわけにはいかず、経営改革が始まった。