東京モノレールは開業当初「運賃高すぎ」で倒産しかけていた! 実に国鉄の10倍以上だ
日立の資本を大幅投入

まず手を付けられたのは名鉄出向者の処理だった。1965(昭和40)年にはすべての出向者の引き上げが行われ、社内の感情的な対立の問題は解消された。そして、日立グループが傘下に収めることで、抜本的な再建が実施されることになる。
まず、東京モノレールの資本金25億円を80%減資し、5億円にする。その上で日立が第三者割り当てで25億円の増資に応じ、新資本金を30億円に。さらに、日立の完全子会社である
・日立運輸(資本金5億円)
・西部日立運輸(資本金1億5000万円)
と東京モノレールを合併し、資本金36億5000万円の新会社とするというものだ。
これで、日立は新会社の株式88%を治めることになり、完全な系列化にすることができる。新会社の会社名は「日立運輸東京モノレール」。この策は1967年6月に発表され、再建策は本格化した。
その後、JR東日本傘下に

東京モノレールを傘下に収めての再建を日立が選んだのは、回収できるもくろみがあったからだ。新会社発足時点で、日立はモノレールを、1968年には黒字化、数年後には株主配当が可能になると見込んでいた。
また、東京モノレールには車両や設備などの未収が135億円あったが、これも10年以内には完済可能とされていた。なぜなら、沿線の開発が進んでいたからである。
1966年には、浜松町の国電(現JR山手線)の駅とモノレール駅とを連絡する跨線橋が完成。大井競馬場前駅や羽田整備場駅などの中間駅も徐々に定着し、通勤定期客も増え始めていた。
中間駅の利用者の増加とともに、モノレールは定時性に難のある高速道路より信頼されるようになり、羽田空港のメインアクセス路線として定着していった。2001(平成13)年には、株式の70%がJR東日本に譲渡され、東京モノレールはJR東日本傘下へと移った。ただ、日立製作所は現在でも大株主である。
赤字によって経営が危機に陥りながらも、将来は必ず沿線が発展することを見越して存続した結果、東京モノレールは、現在の盛況へと至った。ただ、残念なのは、その後モノレールが東京都心の新たな交通機関として期待され多くの計画が立てられたものの実現しなかったことだ。
例えば、1974年に東京都首都整備局が制作した『モノレール開発計画報告書』では、東京都心を走る道路である環状5〜6号線のすべてにモノレールを建設計画が記されている。東京モノレールが注目された一方で、これらの計画が実現しなかったことは、惜しい。なぜ、東京モノレール以降の計画がいずれも実現に至らなかったかも、今後は調査していきたい。