武田信玄はなぜ信濃を支配下に置いたのか? そのカギは「馬」にあった! 軍事・運輸に欠かせない、その歴史をたどる【連載】江戸モビリティーズのまなざし(11)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

江戸時代に入ると活用法が変化

兼平賢治『馬と人の江戸時代』(画像:吉川弘文館)
兼平賢治『馬と人の江戸時代』(画像:吉川弘文館)

 時代は下り、平和な江戸時代に入ると、馬の活用法も変化してくる。武士の乗馬は習得すべき武芸のひとつとなり、軍事から「鍛錬」に変わった。

 一方、実用的に利用される場面は農村に移り、「農具」として馬を活用するケースが目立ってくる。農村では農作業に利用する「馬耕(ばこう)」が日常風景となり、収穫した米や野菜を市場に運ぶのも馬だった。森で伐採した木や海産物も運んだ。運搬用トラックのような存在だ。

 前述の『馬と人の江戸時代』には、仙台藩の農村が馬をどのように飼っていたかを紹介している。

 それによると廐肥(きゅうひ)、つまり馬のふんを肥料とすることに始まり、物資運搬や代掻き(しろかき。馬に鍬(くわ)を引かせて田畑の土を柔らかくする作業)に使われるなど、多くの用途があった。代掻きに使われた馬は、いわばトラクターだ。

 また、盛岡藩の農村では、少なく見積もって「1軒平均2.4頭」の馬を所有していたという(『馬と人の江戸時代』)。他藩に比べて所有数は多かったと見ていい。盛岡藩が南部馬の生産地だったからである。南部馬は全国的に知られた名馬で、日本の在来種の中でも大型、かつ農耕に適していた。

 東北の農村で利用が発達した理由を、寒冷地では「牛よりも俊敏な馬は作業効率の点からしても適していた」からと、『馬と人の江戸時代』は解説している(南部馬は明治時代に絶滅)。

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