JR西の長時間閉じ込め 「乗客を線路へ」なぜ即断できないのか
大雪の影響で、JR京都線の車内に乗客が最大10時間近く閉じ込められた。その背景を過去の列車事故から考える。
大惨事のたびマニュアル追加
最初に取り上げる事例は、1951(昭和26)年に横浜市で発生した桜木町事故である。この事故は、架線工事の作業ミスによるショートで発生した列車火災だ。不幸にも乗客が列車の外に脱出する手段がなく、高架区間で消火作業も難航したため、炎上する車内に取り残された106人が亡くなった。この事故の後、鉄道車両には乗客が自分で扉を開けられる非常ドアコックの設置と表示が義務付けられた。
この事故から約10年後の1962年に東京都荒川区で起きた三河島事故は、3つの事故の総称である。はじめに信号を見誤って側線から本線に入ろうとした貨物列車が、安全側線で脱線し、本線側に傾いて止まってしまった。これが第1の事故である。
次に、この貨物列車に、本線を走ってきた下り列車が接触、脱線し、上りの線路をふさいでしまった。これが第2の事故だが、この時点では負傷者は出ていたものの、まだ死者は出ていなかった。しかし、桜木町事故の教訓により設置されていた非常ドアコックを乗客が操作し、線路を歩き始めたところで第3の事故が起きた。
連絡が間に合わずに事故現場に進入してきた上り列車が、線路上を歩いている人を次々とひいた上に、脱線していた下り列車に衝突して大破、2両目から4両目は高架下に落下してしまった。これにより、三河島事故は死者160人を出す大惨事となった。
三河島事故の被害を大きくした原因のひとつは、他の列車を止めるなどの線路上の安全確保ができていない状態で、乗客が勝手に列車を降りたことであろう。乗客の中には桜木町事故のことが記憶にあり、早く逃げなければと思った人もいたかもしれない。この事故を受けて、当時の国鉄のマニュアルには、安易に乗客を列車の外に出してはいけないという内容が付け加えられた。