「サボって買い食いするな」 休憩中の救急隊員に浴びせられる中傷の数々、“制服仕事”を標的にするのは卑怯だ
他者の命に寛容であれ
もちろん、その根本には救急隊員の過度の労務負担も課題にある。救急安心センター事業や救急と福祉のネットワークによる連携などで、いわゆる
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「明らかに必要のない救急要請(頻回利用)」
をいかに減らすかも重要だろう。
消防庁は啓発リーフレット『救急車を上手に使いましょう』のなかで、
「蚊に刺されてかゆい」
「日焼けでヒリヒリする」
「自分で病院に行くのが面倒」
という理由で救急車が呼ばれた例を挙げている。そうした問題も含め、ICTと医療・福祉連携によって頻回利用者を減らすことができた事例もある。
実際、愛知県豊田市では約5か月で20回も救急車を呼んだ市民が精神科病院との連携で救急車の要請をしなくなった例もある。現場はこうした地道なシステム構築を含め解決に取り組んでいるが、それこそ国民の、市民の協力がなければ、いずれは日本も救急車を呼ぶことそのものが「実費」になりかねない。すでにアメリカやフランス、カナダ、中国の救急車は有料(一部例外あり)である。
いまだ新型コロナウイルスの渦中にあるこの国で、救急隊が食事どころか給水すら「サボっている」と通報される。必死で命を運び、救う彼らに「皆さまのご理解とご協力をお願いします」とお願いさせなければならない現実、私たちは命の危険にあっては彼らにお願いする立場であり、むしろ感謝と応援をするべきなのに。そもそも、もし食事をしていたならシンプルに「食事をとれてよかった、いつもありがとうございます」だと思うのだが。
他者の命に不寛容であることは、自身の命もまた不寛容にあることを受け入れるのと同義である。食事もまた仕事、シンプルに事情を受け入れ、理解し、いつか危険に陥るかもしれない自分の命を守るためにも、救急隊員が安心して仕事のできる社会を、搬送前から「金はいくらある」と命が選別される社会となる前に、私たちも寛容の心、ただそれだけでもいいから協力するべきだろう。