日本GPを制した「ダイハツP-5」 60年代後半、小メーカーの意地を知れ!
空前のモータースポーツブームに沸いていた1960年代後半。日産、トヨタ、ポルシェなどの並みいるレーシングチームと、ダイハツが熾烈な争いを繰り広げた。技術力で挑んだダイハツの威信とは。
日産、トヨタ、ポルシェの熾烈な戦い
1960年代後半、日本国内は空前のモータースポーツブームに沸いていた。
その中核だったのは、1963(昭和38)年に鈴鹿サーキットで開催された第1回以来、1966年からは富士スピードウェイに開催場所を移していた、いわゆる「日本GP」である。
その初期には改造範囲の少ないツーリングカーやGTカー、一部のレーシングスポーツカーで戦われていた日本GPは、1960年代後半になると、新たにグループ6スポーツプロトタイプやグループ7スポーツカーがその主役となって総合優勝を争うこととなる。
ここでは初期のプロトタイプカーだったプリンスR380、プリンスが日産に吸収合併されてからの進化型だったニッサンR380、大型のウイングで武装したグループ7のニッサンR381、同じくグループ7のトヨタ7などが、メーカーの威信を賭けた熾烈(しれつ)な戦いを繰り広げた。
そこに、ヨーロッパから導入された有力レーシングチームによるポルシェやローラなどが加わり、観客はその戦いに熱中した。
こうした熾烈な戦いが本格化する少し前の1966年の日本GP、それまでは市販車のコンパーノをベースとしたツーリンクカーを、さらにわずかながら空力的にモディファイしたP-1やP-2といったプロトタイプカーを限定的に送り込んでいただけだったダイハツから、ボディを一新した新しいプロトタイプカーが参戦していた。
それが「P-3」である。