日本GPを制した「ダイハツP-5」 60年代後半、小メーカーの意地を知れ!
空前のモータースポーツブームに沸いていた1960年代後半。日産、トヨタ、ポルシェなどの並みいるレーシングチームと、ダイハツが熾烈な争いを繰り広げた。技術力で挑んだダイハツの威信とは。
P-5、総合10位GP-1クラス優勝

しかし2台のP-5がエントリーしたこの年の日本GPでは、エンジントラブル続出で予選を走れず、結局決勝出走もかなわず、ほとんど良いところはなかった。
ダイハツのスポーツプロトタイプは、これで終わったわけではなかった。
さらに翌1968(昭和43)年の日本GPには、エンジンのボア×ストロークを78.5mm×67.1mmに拡大し、排気量を1298ccとグループ6スポーツプロトタイプの1.3リッター以下のGP-1の規程一杯にまで拡大したR92B型を投入。最高出力は140psに増加していたと言われている。
新型のエンジンを得たP-5は地道な熟成の効果もあって、その性能および信頼性の向上は著しく、エントリーした4台全てが決勝に進出。その中の吉田隆郎の駆った1台が並みいる大排気量車に割って入るように、総合10位GP-1クラス優勝を成し遂げた。
排気量わずか1.3リッターの小さなプロトタイプカー。総合優勝ではなく、あくまで自社の技術力の確かさを証明するために送り込まれたレースエンジンとともに、見事な成績を残したものの、ダイハツのプロトタイプカーによるワークスモータースポーツ活動は翌1969年半ばには諸般の事情とともに終了となった。
最後のレースとなった6月の鈴鹿1000kmレースでは見事総合2位に入賞。これがP-5による最高位となった。
なお、製造されたP-5はその多くが最終的には廃棄されたが、奇跡的に残っていた1台が2007(平成19)年に完成したダイハツの広報施設であるヒューモビリティワールドの開館に併せてレストアされ展示された。