自衛隊はなぜ災害派遣を行うのか? 背景にあった「出来損ない軍隊」と呼ばれた過去と巧みなイメージ転換戦略

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世間一般で「災害派遣 = 自衛隊」のイメージは定着している。そもそも、なぜ自衛隊は災害派遣をするのか、国際政治学者である筆者がその背景を紹介する。

最初の任務は独断

 警察予備隊にとって初めての災害救援活動は、1951(昭和26)年7月14日、京都府の中西部に位置する南桑田郡で発生した水害への対応だった。しかし、この事例は公式には第1回出行とは認められていない。

 このとき、被災地の要請を受けた福知山部隊が独断で現地に派遣したためだ。この活動は現地の人々に感謝されたが、部隊長の行動はシビリアンコントロール(文民統制。職業軍人以外の一般人が、軍隊に対して最高の指揮権を持つという民主国家の原則)違反であるとして後藤田正晴警備兼調査課長が問題視し、部隊長は処分された。

 公式の第1回出動は1951年10月に発生したルース台風で発生した災害だった。このときの被害は甚大で、山口県知事が第11普通科連隊に救援を要請したが、この連隊を管轄する第4管区隊総監部は部隊の上申を却下した。先の福知山部隊の事例で処分にまで至ったために過度に抑制的になったためとされている。

 とはいえ被害は深刻であり、岩国の米軍部隊が出動したものの、警察予備隊は出動しなかった。結局、副連隊長が福岡の総監部に向かい、吉田首相による許可を直訴するという事態になった。そして、第4管区隊総監から警察予備隊総隊総監を通じ、警察予備隊本部ではなく、岡崎勝男官房長官経由で吉田首相に上申され、ようやく許可が下りることになった。

出行から災害派遣へ

陸上自衛隊の災害派遣イメージ(画像:写真AC)
陸上自衛隊の災害派遣イメージ(画像:写真AC)

 こうして第1回出行が行われ、その後警察予備隊は出行を重ねていき、少しずつ国民の支持を獲得していった。これは警察予備隊が保安隊、自衛隊へと改組された後も変わらなかった。

 特に1990年代以降になると、自衛隊の災害派遣に対する国民の認知が高まっていった。阪神・淡路大震災は未曽有の大災害であり、自衛隊と自治体の連携がうまくいかずに出動が遅れた。

 しかし、阪神・淡路大震災を契機として、自治体と自衛隊の連携が強化されるようになった。防災訓練では、自衛隊の部隊が参加するようになり、自治体の防災関係の職種には自衛隊OBが雇用されることも珍しくはなくなった。

 2011(平成23)年に発生した東日本大震災は大規模な災害であり、多くの犠牲者を出したが、これまでに比べて迅速な派遣を実現できた。東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方では「みちのくアラート」と呼ばれる大規模な対策演習を行っている。東日本大震災の3年前にも行われており、自衛隊だけでなく、警察・消防・自治体が参加する大規模なものだ。このときの経験が東日本大震災に生かされたといわれている。

 このように、自衛隊の災害派遣は国民の自衛隊に対する信頼を育てたことは言うまでもない。そして、その背景には旧軍と異なる組織であることを示し、国民の支持獲得を目指す意識が働いていたのである。