東京の「舟旅通勤」は事業化できるのか? 江戸期の舟運からじっくり考察する

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東京都と品川区による「らくらく舟旅通勤」第2弾の可能性とは。江戸を通して考える。

水運を極めた江戸の川

「東都名所 永代橋深川新地」歌川広重(画像:国会図書館デジタルコレクション)
「東都名所 永代橋深川新地」歌川広重(画像:国会図書館デジタルコレクション)

 経済をまわすには人と物の流れる道が絶対条件だ。その方法を、江戸は川と堀が担った。江戸時代、人のは徒歩で移動、物は舟で輸送が当たり前だった。人は街道を歩いて移動し、重たくて自力で歩けない荷物は舟を使う。この水路は、海か川である。

 江戸の場合、人も荷物と一緒に川を使って移動した。なぜなら、江戸は川や水路が多く町家も広がっていたにも関わらす、橋が少なかったからだ。隅田川などは、防備上、江戸から本所や千住に行くためには千住大橋を渡るしか方法がなかった。明暦の大火で多くの犠牲者を出したため、また戦国の世ではなくなったということで、両国橋などが架橋され始めた。

 しかし、ただでさえ川も支流も多いため、わざわざ橋を回るよりは、舟に乗った方が早い。向こう岸にいくためには「渡し」を利用した。有名なところでいえば、葛飾柴又と松戸を渡す、江戸川の「矢切の渡し」がある。

 物流のコースは、主要な隅田川・日本橋川・神田川・江戸川・荒川・中川に加え、深川の小名木川、江戸川区の新川も重要なルートだった。

港として栄えた品川

「江戸名所 永代橋佃島」歌川広重(画像:国会図書館デジタルコレクション)
「江戸名所 永代橋佃島」歌川広重(画像:国会図書館デジタルコレクション)

 小名木川には、奥州や千葉など江戸を出入りする船や乗員を取り調べる番所があった。荷物と入府する人を取り調べる関所だ。中川番所と呼ばれ、舟の上で陽気に三味線を鳴らしていた旅人も、番所に来ると押し黙ったという。ただし、取り調べ自体はルーズだったらしい。

 小名木川や新川は行徳からの塩の道でもあった。塩は行徳川から新川、小名木川を渡航し、隅田川を横断、日本橋川に入り、小網町の行徳河岸に着く。行徳から日本橋の小網町まで半日ほどかかったという。行徳河岸には塩だけではなく、しょうゆや足袋、かつお節などの物資、人も着いた。

 品川は貢米船や廻船などの港として栄えた。江戸湊は遠浅なため、貢米船や廻船などの大型船は入れない。そこで、佃沖から品川沖に停泊し、瀬取 (せどり)と呼ぶ親船から小舟(艀船)に積み替えて江戸湊に入った。このあたりが、現在の天王洲アイル付近だ。当時は海だった。向かい側の台場も、幕末になって砲台ができた程度で海であり、豊洲も新木場も海である。

 湊として、また東海道の宿場として栄えた品川宿を流れる目黒川は、当時は農業用水として活用されていた。物流としての活用は、明治に入ってからだ。目黒川流域は工場地帯へ発展し、沿岸の中小工場への物資輸送のため、目黒川を舟運の場としての活用が始まった。

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