沖縄に「幻の航空会社」が存在した! 1500人が集まった青い機体、それでも一度も空へ舞うことなく消えた就航構想とは

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資本金約5000万円で始動し、ANAやGECASとの連携、機材リース、採用に1500人超の応募と準備は進んだものの、2003年に契約解除と資金難で破綻。就航前に終わったレキオス航空は、沖縄の航空需要と供給の在り方を今に問いかける。

路線制約と需要の限界

飛行機のイメージ(画像:写真AC)
飛行機のイメージ(画像:写真AC)

 こうしてレキオス航空は終了したが、仮に就航していたとしても成長は容易ではなかったとみられる。

 主力となるはずだった那覇~羽田線は、羽田空港の発着枠が2往復分に限られ、増便も難しい状況にあった。成田や関空、伊丹、福岡といった空港も混雑しており、羽田ほどの需要は見込みにくい。国際線に進出しようとしても、当時の日本では航空協定などの制約が多く、就航のハードルは高かった。現在でも機内食の手配など課題は残っており、国際線参入は容易ではない。収益の機会は限られていたといえる。

 機材面にも課題があった。多くの低価格航空会社が採用して実績を積んだ小型機ではなく、中型機のB767で、しかも当時としては新しい設備である座席モニターを備えていたため、コストは高くなりやすかった。

 さらに、同時多発テロの影響で機材価格が一時的に下がっていたとはいえ、その後の中国経済の拡大などで航空需要が伸び、機材価格は上昇した。こうした環境を踏まえると、2001年当時の水準で追加機材を確保し続けるのは難しかったと考えられる。結果として、コストの負担が重くなる体制に陥る可能性が高かった。

 実際に、独立系として参入し就航に至ったエアドゥ、スカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)、スターフライヤー、スカイマークはいずれも、成長分野の開拓やコスト負担の重さに直面し、最終的にANAの出資を受け入れている。また日本の低価格航空会社は多くが大手の傘下にあり、レキオス航空と同時期に登場したエアアジアのような大規模な新興航空会社は、いまだ日本では現れていない。

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