沖縄に「幻の航空会社」が存在した! 1500人が集まった青い機体、それでも一度も空へ舞うことなく消えた就航構想とは
資本金約5000万円で始動し、ANAやGECASとの連携、機材リース、採用に1500人超の応募と準備は進んだものの、2003年に契約解除と資金難で破綻。就航前に終わったレキオス航空は、沖縄の航空需要と供給の在り方を今に問いかける。
就航準備の進展

レキオス航空の就航準備は着実に進んでいた。2000(平成12)年には那覇~羽田間への参入に向け、整備や運航、空港関連業務の受委託についてANAとの協議を始め、スカイマークやエアドゥの立ち上げ時と同様の支援を受けられる体制を整えた。
2002年3月には米国GECAS(GEキャピタル・アビエーション・サービス)との覚書を結び、ボーイング767-300ERの新造機リース契約に合意した。機体にはレキオス航空の青い塗装が施され、尾翼にはロゴが入れられた。機体登録番号「JA01LQ」もすでに取得されていた。
当時は2001年の米国同時多発テロの影響で航空需要が落ち込み、機材の調達費用はテロ以前より3割ほど下がっていた。新規参入の会社でも機材を比較的安く確保できる状況にあった。
このB767は、座席が革張りで、前方には当時としては国際線でも珍しかった液晶モニターを備えていた。座席間隔も広く、B767-300ERの標準である約286席に対し、レキオス航空の機材は約230席に抑えられていた。2000年代の日本の国内線、とりわけ低運賃をうたう航空会社としては、異例の仕様だったといえる。
機体以外の準備も進んだ。2002年11月には国土交通省に事業許可の申請を行い、受理された。あわせて2003年6月の就航が発表された。
この時期には客室乗務員の採用も始まり、書類選考には定員66名に対して1500名を超える応募が集まった。やがてレキオス航空のB767によって羽田~那覇間の1日2往復運航が始まるはずだった。