昭和時代、なぜエロ本は「山」「駐車場」に捨てられたのか?――少年の足が支えた非公式流通、移動経済から分析する
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昭和の少年たちと「落ちているもの」の記憶

2026年1月25日放送のフジテレビ系『ボクらの時代』には、新ドラマ『ラムネモンキー』でトリプル主演を務める津田健次郎(1971年生まれ)、反町隆史(1973年生まれ)、大森南朋(1972年生まれ)の三人が登場した。世代を代表する俳優が並ぶ鼎談は、思わぬ方向へ話題が流れた。
注目を集めたのは、芸能界の裏話ではない。少年時代、三人が熱中したのは、街で落ちている
「エロ本(成人向け雑誌)」
を探すことだった。津田は「探しに行ってましたよ。僕は駐車場でした」と振り返った。反町は「山」と答え、大森は「大きな公園のしげみ」と続けた。
この場所の選び方は偶然ではない。1970年前後に生まれ、1980年代に少年期を過ごした世代にとって、成人向け雑誌は自ら足を運んで街の空白地帯に探しに行く対象だった。そこに到達すること自体が、情報を得るための必須条件であり、街の死角は物理的な接触によってのみ価値を持つ、情報の保管場所として機能していたのだ。
少年たちの探索は、物理的な距離や街の作り、地域社会の「見て見ぬふり」といった暗黙のルールに支えられていた。津田が語った
「飽きたら次の中学生のために置いておく」
という行動は、“匿名のリレー”のような循環・連帯を生み、非公式の物流を作り出していた。家庭という保護された空間から離れ、自らの脚で境界線を越える過程は、場所を移動する行為にとどまらず、親の管理下にある子どもという立場を一時的に脱ぐ、主体的な行動でもあった。
当時の移動環境を振り返ると、通学や遊びの多くは徒歩や自転車に頼っていた。小学生の大半が徒歩通学を日常的に行い、自転車も生活圏内の移動手段として一定の利用があった。行動範囲は自然に限られ、交通の便や情報の手に入れやすさに左右されず、自分の足で届く距離と、大人の目が届かない隙間が探索の舞台となった。
街の駐車場、公園の外れ、山道の脇――少年たちの好奇心は、身体を使った移動と街の隙間の上で広がっていった。移動による労力の消費と、社会の監視が及ばない座標の特定。このふたつが重なったとき、街の隙間は少年たちにとって自立した行動圏の拠点になった。
移動経済(足や体を使って手に入れる価値)の観点から分析するなら、こうした体験は情報や資源を得るための身体的行動の価値を示すものだ。徒歩や自転車で移動できる範囲に限られた行動圏、目の届かない空白地帯、そしてそれを越えるための労力――こうした条件が、情報の希少性や価値を自然に生み出していた。この構造は、現代の都市における移動の負担や情報へのアクセスの価値の原型としても読み取れる。