昭和時代、なぜエロ本は「山」「駐車場」に捨てられたのか?――少年の足が支えた非公式流通、移動経済から分析する
- キーワード :
- 道路
移動距離が決めた情報の価値

昭和後期、成人向け雑誌は書店ではビニールで封がされ、コンビニでは視線の集まる棚の端に置かれていた。売られてはいるものの、堂々と手に取ることは容易ではない。未成年であればなおさらだ。
正規のルートで買うには、代金を払うだけでなく、自分の年齢や立場を周囲にさらす心理的負担もともなった。そのため、金銭力や社会的信用を持たない少年たちは、市場の枠から外れ、身体を使った独自の入手経路を編み出さざるを得なかった。彼らにとっての“支払い”は現金ではなく、目的地まで辿り着くための身体的労力だった。社会的信用の代わりに、移動という負担を自ら背負う行為である。
ここには、社会が作り出す曖昧な領域の実態が見える。法律上、未成年への販売は規制されていても、物理的に放置された雑誌を拾うことまでは取り締まれない。この矛盾した空間が、少年たちの欲求と社会の建前を両立させる緩衝地帯として機能していた。都市の管理が行き届かない場所へ足を運ぶことで、社会のルールが及ばない領域を自ら確保していたのである。
多くの少年にとって、成人向け雑誌は買う商品ではなく、
「どこかにあるもの」
として存在していた。先輩から聞いた噂、友人同士の共有情報――あそこの駐車場、あの公園の奥。地図には載らない情報が口伝えで広まった。少年たちの情報網は、身体を動かす労力や場所ごとの視界の悪さを前提にした、非効率で原始的なナビゲーションとして機能していたのだ。
目的地までの道筋が不透明であればあるほど、現地まで歩き、空間の奥行きを探索しなければ成果は得られない。この手間こそ、情報の所在を確かめるための欠かせない手掛かりだった。
重要なのは、この行為が消費ではなく探索であった点である。欲望はすぐに満たされず、移動し、探し、見つけるという過程そのものが体験となった。目的地まで足を運ぶ物理的手間が、情報の価値を押し上げる。
自分の脚で距離を稼ぎ、秘匿された場所に到達する苦労が、得た情報の希少性を保証していた。どれだけ歩き、どれだけの時間をかけて探し出したかという事実は、情報の重みを裏付ける証明となったのである。身体を動かすことで支払った対価が、情報の価値を直接的に支えていた。