国内線の「機内食」はなぜ消えたのか? 予兆はバブル以前、歴史を振り返る
機内食は「空旅の楽しみ」
日本の航空業界でトップの旅客収入(2020年度)を誇るANAホールディングス(ANA)は、コロナ禍を背景に展開した機内食の通販
「おうち機内食」
を大ヒットさせた。2022年2月時点で140万食以上を完売させたというのだから驚きだ。
これを追うように、旅客収入2位の日本航空(JAL)も2021年7月に
「BISTRO de SKY」
という同様のビジネスをスタートさせ、好評を得ているようだ。
上記の現象は、機内で提供される食事を「空の旅の大きな楽しみ」としている人が多いことの表れだろう。
国内線の軽食提供は当たり前だった
現在、国内線における機内食の無料提供は、大手2社の上級クラスシートにほぼ限定されている。国内線最長路線であるANAの新千歳=那覇便(フライト時間4時間弱)であっても例外ではない。
しかし、ある年代以上の人なら記憶にあるように、日本の航空史には、国内線の普通席でも機内食が当たり前のように提供されていた歴史がある。国際線のようなボリュームはなかったが、少なくとも“軽食”と呼べるものを客室乗務員が乗客に配っていた。
では、そのサービスはいつまで存在し、どのような事情で廃止されたのだろうか?
日本初の機内食を食べたのは4人
機内食の歴史は100年以上前に始まっており、1919年にハンドリー・ページ・トランスポート(現ブリティッシュ・エアウェイズ)がロンドン=パリ便で、乗客にサンドイッチと果物を有料提供したのが元祖だとされている。
客室乗務員が機内食を用意するスペース……つまり、ギャレーを備えた最初の機材「ダグラスDC-3」で、デビューは30年代後半である。
日本初の機内食は「ダグラスDC-3」より歴史が古い。1931(昭和6)年、東京=静岡間を運航していた東京航空輸送社の水上機に「エアガール」と称した客室乗務員が搭乗し、乗客に軽食や紅茶を提供している。ちなみに、ダグラスDC-3が20人以上を同時に運べたのに対し、この水上機の乗客の定員はわずか4人であり、現在、一般的にイメージされる旅客機のイメージとは大きく異なる。
戦後初の機内食の無料提供サービスは、1951年8月に設立されたJALが、同年10月より戦後初の国内民間航空定期便として運行された羽田=伊丹=板付便で行った。
JALのみならず、高度経済成長期に業界再編で生まれたANA(1958年設立)、東亜国内航空(1971年設立。1988年より日本エアシステム)も朝や夕方の長距離路線ではパン類やおにぎりなどの軽食、他の時間帯では菓子などを行うのが定着。
高度経済成長期がオイルショックで終わり、やがてバブル景気が始まり、それも4年ほど終わるなど経済状況は変動していくが、日本の国内線で機内食が“あって当たり前”の時代は続いた。