軍用地返還50年…巨大な空白地はなぜ「モデル団地」になったのか? 飛行場跡地に描かれた“白紙からの都市計画”とは

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光が丘は、米軍住宅跡地を返還後に大規模団地と都市型公園に転換したモデル都市である。最大4万人の人口増を見込み、1万2000戸規模で整備。交通利便性や先進設備を組み込み、都心直結の地下鉄開通を経て生活環境を大きく刷新した。

光が丘の歴史的変遷

光が丘団地(画像:写真AC)
光が丘団地(画像:写真AC)

 大江戸線利用者にとって「光が丘」は馴染みのある地名であり、練馬区北部に位置する大規模団地を中心とした住宅地である。もともとは武蔵野の山林で、戦前には都心を囲む環状緑地帯の一部として整備される予定だった。しかし太平洋戦争の勃発により計画は変更され、半ば強制的に土地が買収されて成増飛行場が建設された。

 戦後、成増飛行場は廃止されたが、連合軍は米空軍の家族住宅である「グラントハイツ」を整備し、区域の開発は一時的に軍用住宅に限定された。1960年代になると東京都などが返還を要請し、1973(昭和48)年には全面返還が実現する。

 返還を受けて東京都は跡地利用計画を策定し、大規模な都市型公園と団地の建設を決定した。広大な土地は自由度の高い都市設計を可能にした一方、住宅用地と公園・公共施設の配置をめぐる調整を難しくした。こうした背景から、1972年には

・東京都
・練馬区
・板橋区
・日本住宅公団(現UR都市機構)
・東京都住宅供給公社

が参加する「グラントハイツ跡地開発計画会議」が発足し、計画の詳細を詰める作業が進められた。

 この過程では、将来の交通網や生活利便性を見据えた土地利用が検討され、駅や道路の配置、団地内の公共施設の位置決めなどが初期段階から想定されていた。結果として、広大な土地を生かした一体的な都市設計が可能となり、後の光が丘の発展の基盤が築かれた。

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