軍用地返還50年…巨大な空白地はなぜ「モデル団地」になったのか? 飛行場跡地に描かれた“白紙からの都市計画”とは

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光が丘は、米軍住宅跡地を返還後に大規模団地と都市型公園に転換したモデル都市である。最大4万人の人口増を見込み、1万2000戸規模で整備。交通利便性や先進設備を組み込み、都心直結の地下鉄開通を経て生活環境を大きく刷新した。

都営12号線計画の影響

光が丘団地の位置(画像:OpenStreetMap)
光が丘団地の位置(画像:OpenStreetMap)

 光が丘エリアは、人口が増加していた当時の東京で有望な開発地域だった。交通の便が良く、入居開始の1983(昭和58)年4月時点では、最寄り駅は東武東上線の下赤塚駅で、光が丘パークタウン入口から徒歩6分の距離にあった。

 同年6月には地下鉄有楽町線が延伸し、徒歩3分の営団赤塚駅(現・地下鉄赤塚駅)が新たな最寄り駅となった。池袋までは乗り換えなしで約15分、有楽町までも約30分でアクセスでき、居住者の日常的な移動利便性が大幅に高まった。

 さらに、返還時点では都営12号線(現・大江戸線)の建設計画も進んでいた。都市計画段階で始動していたこの路線は、団地中央のショッピングモール隣接地に新宿直結の駅を設置する予定で、完成すれば都心への直通アクセスが確保されることになる。こうした計画は、地域の発展を見据えた都市設計の一環として、住宅需要の形成や商業施設の誘致にも影響を与える要素だった。

 しかし、1973年にグラントハイツが返還されると、開発計画はすぐにまとまらなかった。問題となったのは、住宅用地と公園など公共用地の配分である。東京都と住宅公団は、公園や公共施設を整備しつつ、1万5~6000戸規模の住宅建設を予定していた。しかし、地域住民や練馬区からは住宅戸数の削減と引き換えに、公園用地の拡充や公共施設のさらなる整備が求められた。この調整過程では、交通網や生活利便性を意識した施設配置の再検討も行われ、都市としての魅力と利便性を両立させる設計が模索された。

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