街なかから消えゆく「歩道橋」 古き良きデザインが物語る、目指すべき「道路の未来」とは
都市問題はデザインで解決できる?

明治期に開港地として異国の文化を率先的に取り入れてきた横浜は、トレンドリーダー的な都市でもあった。時代とともに横浜の優位性は消えていくが、戦後に再び先駆的な都市デザインに取り組み、それらが横浜の先進性を再び加速させることにつながった。
飛鳥田市長によって横浜という都市のデザインが磨かれることになるが、それよりも早くから「これからの日本にはデザインが必要だ」とデザインの重要性を主張していた人物がいる。それが芸術家の岡本太郎だ。
岡本は戦後から仲間に呼びかけて、さまざまな分野でデザインの話し合いを重ねた。そして、その集まった仲間のひとりに柳宗理(やなぎ そうり)がいた。
インダストリアルデザイナーのパイオニアとしても知られる柳は、終戦直後から仲間たちと工業デザインの研究に没頭。現在も柳がデザインしたバタフライスツールやフライパンなどは高い評価・人気を得ている。プロダクトデザイナーとして有名な柳は、常々「デザインで都市問題を解決できるのではないか?」と考えていた。
特に柳が着目していたのが、交通関連の施設・設備だった。そのなかでも、柳は歩道橋が不格好だとして、美しい歩道橋のデザインに挑んでいる。
1968(昭和43)年、柳の歩道橋への試行はデザイン・ギャラリー展を実施。歩道橋は車道との関係だけではなく、歩行者などの動線・動態にも配慮しなければならない。柳が考案した歩道橋が即座に採用されることになったわけではないが、1972年には大阪府枚方市に柳がデザインした歩道橋が完成している。
柳が投じた疑問は、それまで画一的に整備するといった風潮が強かった交通行政に風穴を開けていくことにもつながった。
柳のほかにも、歩道橋デザインにこだわったデザイナーに大野美代子がいる。大野は横浜六大事業のひとつでもある横浜ベイブリッジの設計者として知られる。横浜ベイブリッジは1989(平成元)年に完成したが、大野の傑出したデザインセンスを世に知らしめたのは1977年に完成した東京都板橋区の蓮根歩道橋だった。