東武東上線の謎! “北西”を走るのに、なぜ「東上」なのか?

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東京・池袋と埼玉・寄居を結ぶ東武東上線。そのルートの裏には、渋川経由で新潟・長岡を目指した壮大な私鉄計画があった。山岳地帯に挑んだ幻の延伸構想と未成線の背景から、鉄道事業における資金、地形、需要予測という「三重の壁」が浮かび上がる。

東上線名の由来と歴史的背景

渋川駅の位置(画像:OpenStreetMap)
渋川駅の位置(画像:OpenStreetMap)

 前述の「東上線」の名称の由来は、当初の建設計画にある。仮免許を最初に取得した段階では、終点は

「群馬県渋川町(現・渋川市。1954年廃止)」

に設定されていた。現在の終点である寄居から本庄市、高崎市を経由する計画だったのだ。このため、群馬県までの路線計画があったことから、

・東京の「東」
・群馬県の旧国名・上野国(こうずけのくに)の「上」

を組み合わせて「東上線」と命名された。

 その後、1920(大正9)年に東上鉄道は東武鉄道と合併した。合併の目的は物価急騰による経費節減であり、両社の合意による対等合併だった。このため、東上線には現在も続く独自の色彩が残っているといえる。

 渋川町までの土地の買収は、ある程度まで進んだ。しかし工事は途中で止まり、1924(大正13)年に国からの許可が取り消された。東武鉄道は、その理由を不明としている(『朝日新聞』2015年4月17日付夕刊)。ただし、地域経済の変動や資金調達の難航が影響した可能性はある。当初の延伸計画自体が、見直しを迫られたと考えられる。

 地形面でも課題は大きかった。山地が連なる沿線ではトンネル工事が技術的に困難であり、建設費の増加が避けられなかった。また、輸送需要の予測が不透明であったことも、事業継続に二の足を踏ませた要因といえる。結果として、東上線は現在の終点である寄居駅までの運行にとどまることとなった。

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