渋谷はもう終了? ホームレスは消え、TikTokerが跋扈する「宮下公園」…誰のための公共空間? Z世代が語る“渋谷らしさ”とは何か?
包摂的公共空間の可能性

「Z世代の主張はこれだ」と提示され、それに納得して立ち止まるわけにはいかない。本当に、誰かの居場所を作るためには、誰かを排除しなければならないのか。
確かに、ここ数年もてはやされてきた多様性が絶対的な真理であるかのような風潮に、違和感や反発を覚える人は多い。多様性を唱える人々の多くは、立派な肩書きを持ち、現実感に乏しく、どこか浮世離れしている印象を与えていた。そうした状況に対し、現実に苦しむ人々が反発を抱くのは当然だろう。このため、多様性は偽善的だという語りが説得力を持つのも理解できる。しかし、氏が見落としているのは、
「何かを排除しなければ誰かの居場所は作れない」
という前提の妥当性だ。この前提を自明のものとして受け入れること自体が、大きな誤りではないか。公共空間の本質は、「公共」という言葉が示す通り、多様な人々が共存できる場にある。
・選択と集中
・包摂と多様性
を対立軸として捉えること自体が、解決策の幅を狭めてしまっている。実際、公共空間においても商業的成功と社会的包摂は両立し得る。MIYASHITA PARKの再開発でも、商業施設と共存しながら、異なる経済階層が利用しやすい価格設定や、地域コミュニティが関われるスペースの確保など、工夫の余地はあったはずだ。
渋谷区も、公園に住んでいたホームレスを排除するだけでなく、受け入れの方法を提示していた。しかし、それでもこのプロジェクト全体が、まちづくりにとって都合の悪い存在を取り除くという視点から抜け出せなかったように見える。
谷頭氏の主張は、こうした複雑な経緯や選択の可能性を十分に掘り下げていない。そのため、「排除は仕方がない」という結論を補強する役割を果たしてしまっている。結局のところ、氏の「諦め」が、視点を歪ませているのではないか。