「滞在するだけ」で価値を感じられる日本の旅体験【連載】平和ボケ観光論(5)
“観光しない旅”が示すポストコロナの潮流

「平和ボケ」という言葉は、これまで危機感の欠如や無防備さを戒める自虐的な表現として使われてきた。しかし、人の移動を前提とする観光の視点で捉え直すと、その意味は大きく反転する。世界各地で移動に緊張と警戒が伴う現代において、防衛本能をほぼ解除した状態で滞在できる環境は、他国がどれほど投資を重ねても容易に再現できない希少な資産である。本連載「平和ボケ観光論」では、この環境をインバウンドの心身を回復させる世界屈指の安全インフラとして再定義する。自嘲の対象とされてきた「平和ボケ」という空気が、いかにして世界が渇望する「最高の贅沢」へと転じるのか。各地での体験を通じ、その価値を多角的に掘り下げていく。
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本連載のテーマを考察するきっかけとなったのは、コロナ禍とその前後における人々の動き、そして2021年に開催された東京五輪だ。特におもてなしを象徴する存在となった選手村は、これからの観光のあり方を読み解く重要な要素となる。
コロナ禍の影響により、東京五輪では従来以上に滞在中の安心感や細やかな配慮が強調され、選手や関係者にとって印象深い体験となった。なかでも選手村の食堂は高く評価され、和食から西洋料理、アジア料理に加え、ベジタリアン、グルテンフリー、ハラル対応など、多様な食文化に配慮した約700種類のメニューが提供された。選手たちがSNSに食事の写真を投稿し、その充実ぶりを称賛したことも話題となった。
通常の五輪であれば、トップアスリートの中には選手村に滞在せず、外部の宿泊施設を利用する者も多いため、食堂への期待がこれほど高まることは少ない。しかし、コロナ禍で多くの宿泊施設や飲食店が営業を制限されるなか、必然的に多くの選手が選手村に滞在することとなった。この状況は、選手たちが移動を最小限に抑えながら、日本の大衆料理や滞在環境の質の高さをじっくりと体感する機会を生んだ。異国での移動につきまとう緊張感やリスクを意識せずに過ごせる環境そのものが、日本のおもてなしの価値を改めて証明したといえる。
こうした経験は、ポストコロナ期の訪日観光にも通じている。2025年9月には、訪日外国人旅行者数が前年同月比13.7%増の約327万人に達し、1月から9月の累計では過去最速で3,000万人を突破した(JNTO調べ)。特に中国、韓国、台湾、米国などのリピーターを中心に、特定の場所に腰を据える滞在型観光の需要が高まっている。旅行者は各地の名所を急いで巡るよりも、滞在先での安らぎや、その土地の食や生活文化に深く触れることに価値を置く傾向が強まっており、都市部のカフェや地方の宿泊施設でゆったりと時間を過ごす体験が人気を集めている。
東京五輪では、選手たちが観光地を巡ることなく、日本の日常的な食文化や快適な滞在環境を享受し、強い印象を残した。防衛本能を解除して過ごせる日本の安全な社会基盤は、旅行者にとって心理的な移動の壁を取り払う大きな力を持っている。この現象は、観光地を積極的に回ることなく、その場所での暮らしや空気感を楽しむ“観光しない旅”の拡大として、現代の訪日観光トレンドに反映されている。