犬猿の仲だった「東名」「中央道」が、すっかり仲良しになった根本理由
東名と中央道は、東京を起点に約6km離れた位置から始まり、互いに深い関係を築いてきた。戦後の高速道路建設において対立から妥協し、2000年代以降は新たな路線が誕生し、アクセスが向上。東京外環道や三遠南信道路の開通でさらなる関係強化が期待される。
東名・中央道の激闘史

現在では深い関係にある東名と中央道だが、もともとは“犬猿の仲”といえるほど対立していた。日本の高速道路建設が具体的に動き始めたのは、戦後の1957(昭和32)年に制定された「国土開発縦貫自動車道建設法」による。これは各地方に縦貫自動車道を建設し、主要都市には枝葉の自動車道を通す計画だった。
そのなかでも、東京~名古屋~神戸のルートは一般道の交通量が多かったため、開通の優先度が高かった。最短ルートが構想され、現在の中央道~名神高速道路(名神)のルートが検討された。この段階では、東名の構想は存在しなかった。
東名が構想に浮上したのは、1960年制定の「東海道幹線自動車国道建設法」からだ。沿道の人口の多さや国道1号線の交通量の飽和を受けて、中央道よりも優先的に建設すべきだとの声が上がった。これにより、
「東名vs中央道」
の対立が生まれた。
対立が続くなか、両者は妥協し、同時に着工することとなった。先に構想された中央道だが、最大の問題は南アルプスを貫通する長大トンネル(長さ5000m以上)の建設だった。このため、初区間の開通は東名よりも早かったが、その後の建設は滞った。一方、東名は各区間の施工命令から建設までがスムーズに進んだ。結果的に、中央道は当初のルートを変更し、さらに起点の高井戸IC周辺での住民による建設反対運動も影響し、開通までに時間がかかった。
結局、東名は初区間の開通から約1年で全線が開通したのに対し、中央道は約15年を要した。その後、しばらくの間、東名と中央道はそれほど深い関係にはならなかった。